礼に始まり礼に終わる
2019年10月6日 日常「礼に始まり礼に終わる」という言葉は日本武道においてはごく一般的な考え方で、多くの場合、作法として一番初めに習う言葉でもある。
ありがちだが幼少のころ剣道を習っていた自分にとっても礼というのは一種の儀式的な儀礼に終始していた側面もあり、もっとわかりやすく言えば礼節を弁えないクソ生意気なやんちゃな少年だったのでその内容についてわが身を顧みたのは剣道をやめてずいぶん経ってからのことだったと思う。
それもある種は仕方ないことでもあるだろう。
礼とは相互の関係性を良好に保つためのテクニックであり、その要点は不要な敵をつくらないという部分にある。そして、また別の側面を上げれば尊敬されるような振る舞いを身に着けるということでもあるため、そのどちらも必要ない向かうところ敵無しの無鉄砲なわんぱく坊主に礼節など実践できようはずもない。
さてそんな恥ずかしい昔語りはひとまず置いておいて、年を取ったせいか実は先月の中ほどから随分と具合が悪かった。
耳の前下くらいの位置にしこりができればすわ耳下腺腫瘍かと思って耳鼻科に行き「ん~、アテローム(粉瘤)ですね。自然に消える場合もありますんで二週間ほど様子を見て消えなかったらまた来てください」と言われたのが最初だったか。
別の日、朝起きて突然左目だけが真っ暗になっていた。症状は二分くらいで治ったのだが、心配になって眼医者にいっていろいろな検査をした挙句、「眼球は全き健康で何も問題はない。スマホいじったりPCのモニタ見る時間を減らして睡眠時間をよくとるなど生活習慣も改善しなさい」とまさに見透かされたようなことも言われて目薬の処方もなしに帰された。
また別の日、夕方すぎに俯せで寝転がっていたら突如、悪心に見舞われ、救急診療に駆け込めば「ウイルス性の胃腸炎でしょう。たぶん要らないとは思いますが一応吐き気止めを出しておきますか。ではお大事に」とあっという間に追い返された。
他にも左手首は時折ズキッと痛むし、この前は手の甲を横に走る靭帯を痛めたりとかもして、全身不調リレー大会でも開催されているのかというくらいに身体の不具合にあっていた。
それでもまぁ、やることはやらにゃと原稿を書くためPCの前に座ろうとするのだがなんだか首の後ろがきゅぅ~~っと圧迫されるような不快感に襲われ10分とモニタの前に座っていられない。スマホは割と平気なのだが、モニタは刺激が強いのかかなり辛かった。
それで、兄に聞けば似たような症状になったことがあると言っていて、どうも一切のデジタルデバイスを遠ざけて二日寝てたら治ったといっていた。
果たして、自分も似たような感じで寝てみて多少は回復の兆しもみえたがまだすっきりとはしない。
それで先月末ごろすこしだけ上向いた体調で民間療法も何か試してみようという気になって選んだのが冷温交代浴というやつだ。
なんとなくこうも色々な場所に病変が出るというのは自律神経失調症のケがあるのではないかという気もしていたし、ドライアイにもなっている気もしたし、血行不良になっている気もしていたのが後押しとなって、物は試しということでザブンと風呂に飛び込んだ。
なにぶんせっかちな性分である。加えて体調が悪いともなれば細かい所などイチイチ読み込んではいられない。いくつかのウェブサイトを斜め読みして凡そどの説明でも43度のあっつあつのお湯を張り一分間浸かってから、水シャワーで一分間カラダを虐めるというのを繰り返すらしいということだけ頭に入れて風呂場にいって即実践。
もちろん身体は洗ったが、この冷温交代浴。初めて試したその時はまるで拷問のようだった。
湯に浸かり、じんわりとぬくもってきたところで冷水シャワー。頭から滝に打たれるが如く冷や水が身体を伝えば、ぞわぞわとした怖気が首筋にまとわりついてきた。
そして、湯船に身体を入れれば今度は目は開いているのに視界がチカチカと明滅するのが二十秒。ようやく収まり温まってきたところで再度、冷水シャワーを浴びて、コホーコホーとダースベイダーみたいな荒い呼吸音を立てながら60秒。
3セットまでこなしたところで我慢できなくなリタイアした。
実につらい修行だったが、その甲斐あってか交代浴を実践し始めてからだんだんと体調も戻り、ドライアイのケも収まり、ようやっとこうしてPCに向かって文字などをかけるほどに回復してきたのだが、最近になって気付いたのが、交代浴のサイトはどれも体調の悪い時にはやるなと書いてあること。そして、最初に強く印象に残っていた「キツイと思ったら9回できなくてもいい」みたいなサイトの記述に対して、初日は9回なんて絶対無理だろと思っていたのがそれも勘違いで、どうも9回というのは4セット半繰り返すということだったらしい。
そして、交代浴の一番最初はナント!冷水から始まるらしいということだった。
冷温冷温冷温冷温冷
というので9回(4セット半)という換算で、これもまた冷に始まり冷に終わるということだったのだ。
毎日とはいかないが三日に一回くらいでこの交代浴を実践していた私は初めから基本を外していたらしいことがわかって、今更ながらちゃんとしなくばなと身につまされている次第である。
ありがちだが幼少のころ剣道を習っていた自分にとっても礼というのは一種の儀式的な儀礼に終始していた側面もあり、もっとわかりやすく言えば礼節を弁えないクソ生意気なやんちゃな少年だったのでその内容についてわが身を顧みたのは剣道をやめてずいぶん経ってからのことだったと思う。
それもある種は仕方ないことでもあるだろう。
礼とは相互の関係性を良好に保つためのテクニックであり、その要点は不要な敵をつくらないという部分にある。そして、また別の側面を上げれば尊敬されるような振る舞いを身に着けるということでもあるため、そのどちらも必要ない向かうところ敵無しの無鉄砲なわんぱく坊主に礼節など実践できようはずもない。
さてそんな恥ずかしい昔語りはひとまず置いておいて、年を取ったせいか実は先月の中ほどから随分と具合が悪かった。
耳の前下くらいの位置にしこりができればすわ耳下腺腫瘍かと思って耳鼻科に行き「ん~、アテローム(粉瘤)ですね。自然に消える場合もありますんで二週間ほど様子を見て消えなかったらまた来てください」と言われたのが最初だったか。
別の日、朝起きて突然左目だけが真っ暗になっていた。症状は二分くらいで治ったのだが、心配になって眼医者にいっていろいろな検査をした挙句、「眼球は全き健康で何も問題はない。スマホいじったりPCのモニタ見る時間を減らして睡眠時間をよくとるなど生活習慣も改善しなさい」とまさに見透かされたようなことも言われて目薬の処方もなしに帰された。
また別の日、夕方すぎに俯せで寝転がっていたら突如、悪心に見舞われ、救急診療に駆け込めば「ウイルス性の胃腸炎でしょう。たぶん要らないとは思いますが一応吐き気止めを出しておきますか。ではお大事に」とあっという間に追い返された。
他にも左手首は時折ズキッと痛むし、この前は手の甲を横に走る靭帯を痛めたりとかもして、全身不調リレー大会でも開催されているのかというくらいに身体の不具合にあっていた。
それでもまぁ、やることはやらにゃと原稿を書くためPCの前に座ろうとするのだがなんだか首の後ろがきゅぅ~~っと圧迫されるような不快感に襲われ10分とモニタの前に座っていられない。スマホは割と平気なのだが、モニタは刺激が強いのかかなり辛かった。
それで、兄に聞けば似たような症状になったことがあると言っていて、どうも一切のデジタルデバイスを遠ざけて二日寝てたら治ったといっていた。
果たして、自分も似たような感じで寝てみて多少は回復の兆しもみえたがまだすっきりとはしない。
それで先月末ごろすこしだけ上向いた体調で民間療法も何か試してみようという気になって選んだのが冷温交代浴というやつだ。
なんとなくこうも色々な場所に病変が出るというのは自律神経失調症のケがあるのではないかという気もしていたし、ドライアイにもなっている気もしたし、血行不良になっている気もしていたのが後押しとなって、物は試しということでザブンと風呂に飛び込んだ。
なにぶんせっかちな性分である。加えて体調が悪いともなれば細かい所などイチイチ読み込んではいられない。いくつかのウェブサイトを斜め読みして凡そどの説明でも43度のあっつあつのお湯を張り一分間浸かってから、水シャワーで一分間カラダを虐めるというのを繰り返すらしいということだけ頭に入れて風呂場にいって即実践。
もちろん身体は洗ったが、この冷温交代浴。初めて試したその時はまるで拷問のようだった。
湯に浸かり、じんわりとぬくもってきたところで冷水シャワー。頭から滝に打たれるが如く冷や水が身体を伝えば、ぞわぞわとした怖気が首筋にまとわりついてきた。
そして、湯船に身体を入れれば今度は目は開いているのに視界がチカチカと明滅するのが二十秒。ようやく収まり温まってきたところで再度、冷水シャワーを浴びて、コホーコホーとダースベイダーみたいな荒い呼吸音を立てながら60秒。
3セットまでこなしたところで我慢できなくなリタイアした。
実につらい修行だったが、その甲斐あってか交代浴を実践し始めてからだんだんと体調も戻り、ドライアイのケも収まり、ようやっとこうしてPCに向かって文字などをかけるほどに回復してきたのだが、最近になって気付いたのが、交代浴のサイトはどれも体調の悪い時にはやるなと書いてあること。そして、最初に強く印象に残っていた「キツイと思ったら9回できなくてもいい」みたいなサイトの記述に対して、初日は9回なんて絶対無理だろと思っていたのがそれも勘違いで、どうも9回というのは4セット半繰り返すということだったらしい。
そして、交代浴の一番最初はナント!冷水から始まるらしいということだった。
冷温冷温冷温冷温冷
というので9回(4セット半)という換算で、これもまた冷に始まり冷に終わるということだったのだ。
毎日とはいかないが三日に一回くらいでこの交代浴を実践していた私は初めから基本を外していたらしいことがわかって、今更ながらちゃんとしなくばなと身につまされている次第である。
宮城県石巻市の獣医師が人工交配した牛の二十数頭が血統書に記載された種牛と違うことが明らかになり、県は人工交配に対する新たな実施要領を公布したらしい。
DNA検査によってデータ不一致の問題が明らかになったのは、僕がまだ大学に籍を置いていた時代だからかれこれ5年くらい前の話になるだろうか。たまたま同じバイトに就いた動物系の学科で豚の繁殖について研究していた後輩が、当時、県から渡されたデータからウシの発現形質とか遺伝子型などのチェックに関与していたらしいのだが、結構な数の怪しいウシがいてちょっともうデータの方が信用できないんですよね。みたいなことを漏らしていたのが思い出された。
だから最初にこのニュースを聞いたときにはまぁ随分と懐かしい話が今頃になって上がってきたものだという印象だった。
僕は経済系だったので、直接にそのデータの検証に携わったわけではないし専門外のことに関してはアカデミックな立場から発言することはできないのだけど、そもそも牛の畜産って繁殖農家と肥育農家の経営母体が分かれているところも多いから、ちょっと怪しいなと訝りながらも繁殖農家が売り飛ばしてしまえば問題の発覚は遅れるのである。
牛の妊娠サイクルは10か月で、月経停止期間なども含めるとおよそ年に一回、人間とにている。人工交配によって毎回確実に妊娠するわけでもないのも人間と同じなので、産業レベルでは8年に6回繁殖するという説明が一般的になっている。
件の獣医師はおよそ12年前からこうした行為を行っていて、僕が話を聞いた5年前というとすでに7年間、であれば5~6サイクル分の牛がデータ詐称のもと出荷されていたに違いない。
ブランドイメージの向上や食肉の品質を追求している産業関係者にとっても労力、時間は手痛いものになるだろうが、こうして問題の切り分けが進めば正確なアナウンスの下で消費者の理解を得られる機会が増えると思えば、およそ事態の発覚から五年間という時間もまるきり無駄に過ごされたわけでもないのが救いであろう。
目には見えないがそうした堅実で地道な努力にひびを費やしている人々には頭が下がる思いである。
DNA検査によってデータ不一致の問題が明らかになったのは、僕がまだ大学に籍を置いていた時代だからかれこれ5年くらい前の話になるだろうか。たまたま同じバイトに就いた動物系の学科で豚の繁殖について研究していた後輩が、当時、県から渡されたデータからウシの発現形質とか遺伝子型などのチェックに関与していたらしいのだが、結構な数の怪しいウシがいてちょっともうデータの方が信用できないんですよね。みたいなことを漏らしていたのが思い出された。
だから最初にこのニュースを聞いたときにはまぁ随分と懐かしい話が今頃になって上がってきたものだという印象だった。
僕は経済系だったので、直接にそのデータの検証に携わったわけではないし専門外のことに関してはアカデミックな立場から発言することはできないのだけど、そもそも牛の畜産って繁殖農家と肥育農家の経営母体が分かれているところも多いから、ちょっと怪しいなと訝りながらも繁殖農家が売り飛ばしてしまえば問題の発覚は遅れるのである。
牛の妊娠サイクルは10か月で、月経停止期間なども含めるとおよそ年に一回、人間とにている。人工交配によって毎回確実に妊娠するわけでもないのも人間と同じなので、産業レベルでは8年に6回繁殖するという説明が一般的になっている。
件の獣医師はおよそ12年前からこうした行為を行っていて、僕が話を聞いた5年前というとすでに7年間、であれば5~6サイクル分の牛がデータ詐称のもと出荷されていたに違いない。
ブランドイメージの向上や食肉の品質を追求している産業関係者にとっても労力、時間は手痛いものになるだろうが、こうして問題の切り分けが進めば正確なアナウンスの下で消費者の理解を得られる機会が増えると思えば、およそ事態の発覚から五年間という時間もまるきり無駄に過ごされたわけでもないのが救いであろう。
目には見えないがそうした堅実で地道な努力にひびを費やしている人々には頭が下がる思いである。
災難は降って湧くというのは大昔から言われていることだが、今回は運が悪すぎたといえる。
なんの話かといえば雷の話だ。パソコンの話だ。まぁ、つまりそういうことだ。
ここ数日のうち、九月頭の台風が季節外れの暑さを伴って列島を襲い、世の中では多くの犠牲が払われることとなった。
中には命を落とした人、病気やケガを負った人もいて、それに比べれば僕の見舞われた災難などへの河童というようなものかもしれないけれど、それにしたって哀しいものは哀しい。
より正確には台風のせいではない。
連日30度越えの夏日が続く残暑がふっと緩んだ今日は27度前後。さもありなん。雲量10の曇天でところにより雷雨を伴うという悪天候で、台風一過などなかったかのように天気は気まぐれに雷を落として見せた
僕の見舞われた不幸がどういうものか端的に話をすると、近所に落ちた雷サージが僕のPCを焼いた、というよりほかないだろう。
雷サージというのを知らない人に説明すると、鉄塔なり電柱なりに落ちた雷が電線を伝って近隣の住宅に過剰電圧や過剰電流となって襲い掛かる現象である。
僕の住んでいるところは平野部からは少し離れた山の上で、標高はそれほど高くもないのだが、どういうわけか雷の影響をよく受ける。
前にも一度、家のルータが雷サージを受けてショートしたことがあった。
冗談のようだが居間の空気が焦げ臭くなったのを僕たちの家族はよく覚えている。火災などが起きなくて良かったとも言えるが、しかし、ともかくネットに数日つながらないというので実害はそれなりに大きかった。
はたして、今回餌食になったのは僕のPCだ。
もっぱらゲームとネットサーフィンの為に利用しているこのPCだったが、落雷の影響でPC内部のDDR3 4GBのメモリが一枚だけメモリ不良を起こし、その結果、PCの電源がいきなり落ちた。さらに不測の電源断によって、Cドライブとして利用していた128GB ADATAのSSDがそれを機に一切の応答を見せなくなった。BIOSには『いないもの』にされていた。
このメモリの方は以前にPC内を分解掃除した時にも少し怪しい挙動を見せたことがあって、その時はPC回路の完全放電からメモリの挿しなおしで動いた。だましだまし動かしていたメモリともいえるので今回でお釈迦になってしまうのも無理からぬ話なのかもしれない。
だが、だからと言ってSSDを道連れにして見せるのはあまりにも酷な話といえるだろう。ましてCドライブである。一人で逝くのが寂しかったのなら連れ添いで逝くべきはSSDではなく、デュアルチャンネルで長い時を共に過ごしたもう一枚の4GBメモリであるべきではないだろうか。
そう思ったのだが、それは所詮、残された側の未練ともいうべきものだろう…。
いや、ちがう。違わないけど未練がましくなるのも当然ではないか。なぜならそれは、ハードウェアの問題だけではなく、OSもまた逝ってしまったということなのだから。
今回のことで失ったのは、メモリ一枚とSSD、SSD内にあったデータ(OSを含み、かつ、ここ四年間のPCでの活動とその記録)であった。
写真データなどはまだいいにしても書きかけのポエムや小説、ゲームシナリオ、が一切合切トんだのは、さすがにぐったりと体を横たえるほどのダメージとして今痛感している最中である。
それらに費やした時間も手間も帰ってこないのだ。
まぁ、僕もアナクロな人間なのが幸いしてか、まだそうした活動もペーパーメディアの方が多いのでなんやかんや復旧できるものがありそうなのが救いだろうか。
とにかくPCが動かないままだと非常に困ったさんなので、仙台で唯一頼れるレベルの(何でもそろう)家電量販店、ヨドバシへと足を運び、クルーシャルのSSD500GBとCFDの8GBメモリ2枚(どさくさに紛れてメモリ増設)とWin10 OSのPCビルダー用の少し安いディスク(いわゆるDSP版)のやつと雷サージに対策のブレーカー搭載型電源タップをそれぞれ買い、出費は35000円だった。
全き無辜の私に降って湧いた災難としては35kは激痛である。
今月頭に神社で大吉を引いたご利益はどこで使ったのか、もう使い果たしていたのかもしれないなと思った。
なんの話かといえば雷の話だ。パソコンの話だ。まぁ、つまりそういうことだ。
ここ数日のうち、九月頭の台風が季節外れの暑さを伴って列島を襲い、世の中では多くの犠牲が払われることとなった。
中には命を落とした人、病気やケガを負った人もいて、それに比べれば僕の見舞われた災難などへの河童というようなものかもしれないけれど、それにしたって哀しいものは哀しい。
より正確には台風のせいではない。
連日30度越えの夏日が続く残暑がふっと緩んだ今日は27度前後。さもありなん。雲量10の曇天でところにより雷雨を伴うという悪天候で、台風一過などなかったかのように天気は気まぐれに雷を落として見せた
僕の見舞われた不幸がどういうものか端的に話をすると、近所に落ちた雷サージが僕のPCを焼いた、というよりほかないだろう。
雷サージというのを知らない人に説明すると、鉄塔なり電柱なりに落ちた雷が電線を伝って近隣の住宅に過剰電圧や過剰電流となって襲い掛かる現象である。
僕の住んでいるところは平野部からは少し離れた山の上で、標高はそれほど高くもないのだが、どういうわけか雷の影響をよく受ける。
前にも一度、家のルータが雷サージを受けてショートしたことがあった。
冗談のようだが居間の空気が焦げ臭くなったのを僕たちの家族はよく覚えている。火災などが起きなくて良かったとも言えるが、しかし、ともかくネットに数日つながらないというので実害はそれなりに大きかった。
はたして、今回餌食になったのは僕のPCだ。
もっぱらゲームとネットサーフィンの為に利用しているこのPCだったが、落雷の影響でPC内部のDDR3 4GBのメモリが一枚だけメモリ不良を起こし、その結果、PCの電源がいきなり落ちた。さらに不測の電源断によって、Cドライブとして利用していた128GB ADATAのSSDがそれを機に一切の応答を見せなくなった。BIOSには『いないもの』にされていた。
このメモリの方は以前にPC内を分解掃除した時にも少し怪しい挙動を見せたことがあって、その時はPC回路の完全放電からメモリの挿しなおしで動いた。だましだまし動かしていたメモリともいえるので今回でお釈迦になってしまうのも無理からぬ話なのかもしれない。
だが、だからと言ってSSDを道連れにして見せるのはあまりにも酷な話といえるだろう。ましてCドライブである。一人で逝くのが寂しかったのなら連れ添いで逝くべきはSSDではなく、デュアルチャンネルで長い時を共に過ごしたもう一枚の4GBメモリであるべきではないだろうか。
そう思ったのだが、それは所詮、残された側の未練ともいうべきものだろう…。
いや、ちがう。違わないけど未練がましくなるのも当然ではないか。なぜならそれは、ハードウェアの問題だけではなく、OSもまた逝ってしまったということなのだから。
今回のことで失ったのは、メモリ一枚とSSD、SSD内にあったデータ(OSを含み、かつ、ここ四年間のPCでの活動とその記録)であった。
写真データなどはまだいいにしても書きかけのポエムや小説、ゲームシナリオ、が一切合切トんだのは、さすがにぐったりと体を横たえるほどのダメージとして今痛感している最中である。
それらに費やした時間も手間も帰ってこないのだ。
まぁ、僕もアナクロな人間なのが幸いしてか、まだそうした活動もペーパーメディアの方が多いのでなんやかんや復旧できるものがありそうなのが救いだろうか。
とにかくPCが動かないままだと非常に困ったさんなので、仙台で唯一頼れるレベルの(何でもそろう)家電量販店、ヨドバシへと足を運び、クルーシャルのSSD500GBとCFDの8GBメモリ2枚(どさくさに紛れてメモリ増設)とWin10 OSのPCビルダー用の少し安いディスク(いわゆるDSP版)のやつと雷サージに対策のブレーカー搭載型電源タップをそれぞれ買い、出費は35000円だった。
全き無辜の私に降って湧いた災難としては35kは激痛である。
今月頭に神社で大吉を引いたご利益はどこで使ったのか、もう使い果たしていたのかもしれないなと思った。
ハムバッカーのノイズだけ除去できる意味がよく分からない、という話。
2019年8月9日 日常世の中にはエレキギターとかエレキベースとかいう楽器がある。
時期としては第二次世界大戦の終戦に前後して誕生し、古くはフェンダー社からテレキャスターが、ついでストラトキャスターが産まれ、それを追ってプレシジョンベースやジャズベースなどが産み出された。
そのライバルとなったギブソン社でもエレキ楽器が開発され、レスポールやSGなどのシリーズがロングセラーとなる。
タイトルについているハムバッカーはこのギブソン社が開発したピックアップの名前である。
エレキベースやエレキギターにはマイクがついていない代わりにピックアップと呼ばれる磁石にコイルを巻きつけた装置がついている。
普通、日常的に使用されるマイクといえば音波を電気信号に変換する装置のことだが、ピックアップは弦の振動を電気信号に変換するという点でマイクとはことなる。
楽器の鳴り、ボディの振動そのものを電気信号に変換する装置もあり、これはピエゾピックアップと呼ばれる分類がある。
ハムバッカーはピックアップの一種で、より具体的には『コイルを巻く向きと磁石のN極の向きを逆にした二つのピックアップを接続したもの』といえる。
世に数多あるハムバッカーの説明ではおおむね次のような紹介がなされる。
ハムバッカーのメリットは信号に対するノイズの成分を減らすことができる。デメリットとしては高音成分の輪郭があいまいになる。ノイズの信号は逆位相の波形として受発信するので打ち消し合い、弦の信号は強め合うので二倍になる。(実際には物理的距離の問題などで二倍になることはないし、ノイズも完ぺきな形で打ち消すことはほとんどない)
という趣意だ。
まぁ、ぱっと目につくwebサイトではどれも似たような説明と図示がされていて分かったような分からないような気にさせられるのだが、ここで一つ疑問がわく。
どうやってノイズだけを選択的に除去してるの?という疑問だ。
弦振動とノイズ、どっちも磁界の変化を電気信号に変換しているという意味では同じの様に思える。
ピックアップの信号は中学の時に習ったレンツの法則なり誘導電流なりで発生していると考えれば理解に容易いのだが、弦の振動として送られる信号とその他の雑多なノイズとして送られる信号にはどのような違いがあるのか、そういったサイトを見て回っても明示されていなかった。
ノイズの要因はいろいろな原因があるが、(例えば照明や電化製品から発生する)電磁波が空間中を漂っていて、それをピックアップが拾ってしまうから完全に遮断する方法は恐らくほとんどないというような記述が目立つ。
だがしかし、やはりというかこれだけではどっちがどう違うのかは分からなかった。
何故、何故、なんで、というキモチを抱えモヤモヤしたままネットサーフィンをしていると、ようやく一つ核心らしい記述を見つけた。
”弦の信号の位相は「磁石の向き」と「コイルの巻きの向き」の両方に関係してくるが、ノイズは「コイルの巻きの向き」は関係してくるが、「磁石の向き」は関係がない。”
というものだ。
なるほど!確かにそれなら事前の説明の通りになるが・・・・・・いや、なんでだ?ノイズだけは磁界の向きがどうして関係ないってことになるんだ?どっちも磁界の変化でコイルに流れる電流の向きを信号にしてるんじゃないのか?
のどに小骨がひっかかったようなモヤモヤ感があった。
ここさえ乗り越えればハムバッカーの原理に納得できるところまできているのだが、そのあと一歩を突き詰めて書いている記述は残念ながら見当たらなかった。
こういう場合は3通りくらいに分けられる。
1.単に書き忘れた/文字数や根気の関係で書く気がなかった場合
2.既に前提として提示したものから当然に説明できる/敷衍して説明できる場合
3.素人読者に理解できない程、難解な事象に踏み込むため書かなかった場合
まず3は専門家がかみ砕いて説明しているようなサイトにも載っていなかったので、説明しきれるかはともかく論理背景として触れておくのも怠るということは考えにくいので除外していいだろう。
1については否定しにくいし、いくつかはこれが理由になっていたかもしれないがが、そろいもそろってものぐさが理由で書かないというのもやはり考えにくい。
ならばあとは2だろう。というか自分にできそうなことと言えばこれくらいで、基礎理論に立ち戻って考えれば何かつかめてくるかも知れないと思ってうんうん唸っていた。
そしたらある時ハタと電流が走った。
問題の鍵は弦が強磁性体であることだった。およそ市販されているエレキ楽器の弦は鉄芯にニッケルを巻き付けたものだったり鉄線そのものだったりする。これがピックアップの磁石によって生じる磁界中で振動することによって音が発生する。
で、これはピックアップに積まれた磁石の極性の影響を受けてるのだ。
ピックアップだけで物事を考えているとすっかり忘れていたことだった。
フレットを押さえて弦を弾くと、基音の振動は腹が一個の波になる。現実には倍音振動とかも発生するが、あくまでメインの信号はそうやって作り出される。そう考えると、それぞれのピックアップの上で同時に同じ方向にたわんでいることになる。ピックアップが少し離れた場所にあったとしても、ポールピースの向きが逆ならそれぞれのピックアップで受け取る信号の位相は逆になるのである。
一方でノイズの元となる電磁波は、これらのピックアップによって生じる磁界とは独立な発生源から放射されたものであり、他の要因を考えないならば、それぞれのピックアップで受け取ったノイズの電磁波はフロントとリアのピックアップについている巻きの向きが違うそれぞれのコイルにたいして逆向きに誘導電流を生じさせる。
つまりはこういうことだったらしい。
マクスウェル方程式だのまで引っ張り出す必要がなくてホッとしたが、どうも原理とか結果だけ説明されて、分かった気になっても実際の物理現象として何が起こってるかまできちんと想像できるようにしておかないと、このようなふとした疑問からドツボにはまることが多くて大変なのだ。
もう少し利口になりたいものである。
時期としては第二次世界大戦の終戦に前後して誕生し、古くはフェンダー社からテレキャスターが、ついでストラトキャスターが産まれ、それを追ってプレシジョンベースやジャズベースなどが産み出された。
そのライバルとなったギブソン社でもエレキ楽器が開発され、レスポールやSGなどのシリーズがロングセラーとなる。
タイトルについているハムバッカーはこのギブソン社が開発したピックアップの名前である。
エレキベースやエレキギターにはマイクがついていない代わりにピックアップと呼ばれる磁石にコイルを巻きつけた装置がついている。
普通、日常的に使用されるマイクといえば音波を電気信号に変換する装置のことだが、ピックアップは弦の振動を電気信号に変換するという点でマイクとはことなる。
楽器の鳴り、ボディの振動そのものを電気信号に変換する装置もあり、これはピエゾピックアップと呼ばれる分類がある。
ハムバッカーはピックアップの一種で、より具体的には『コイルを巻く向きと磁石のN極の向きを逆にした二つのピックアップを接続したもの』といえる。
世に数多あるハムバッカーの説明ではおおむね次のような紹介がなされる。
ハムバッカーのメリットは信号に対するノイズの成分を減らすことができる。デメリットとしては高音成分の輪郭があいまいになる。ノイズの信号は逆位相の波形として受発信するので打ち消し合い、弦の信号は強め合うので二倍になる。(実際には物理的距離の問題などで二倍になることはないし、ノイズも完ぺきな形で打ち消すことはほとんどない)
という趣意だ。
まぁ、ぱっと目につくwebサイトではどれも似たような説明と図示がされていて分かったような分からないような気にさせられるのだが、ここで一つ疑問がわく。
どうやってノイズだけを選択的に除去してるの?という疑問だ。
弦振動とノイズ、どっちも磁界の変化を電気信号に変換しているという意味では同じの様に思える。
ピックアップの信号は中学の時に習ったレンツの法則なり誘導電流なりで発生していると考えれば理解に容易いのだが、弦の振動として送られる信号とその他の雑多なノイズとして送られる信号にはどのような違いがあるのか、そういったサイトを見て回っても明示されていなかった。
ノイズの要因はいろいろな原因があるが、(例えば照明や電化製品から発生する)電磁波が空間中を漂っていて、それをピックアップが拾ってしまうから完全に遮断する方法は恐らくほとんどないというような記述が目立つ。
だがしかし、やはりというかこれだけではどっちがどう違うのかは分からなかった。
何故、何故、なんで、というキモチを抱えモヤモヤしたままネットサーフィンをしていると、ようやく一つ核心らしい記述を見つけた。
”弦の信号の位相は「磁石の向き」と「コイルの巻きの向き」の両方に関係してくるが、ノイズは「コイルの巻きの向き」は関係してくるが、「磁石の向き」は関係がない。”
というものだ。
なるほど!確かにそれなら事前の説明の通りになるが・・・・・・いや、なんでだ?ノイズだけは磁界の向きがどうして関係ないってことになるんだ?どっちも磁界の変化でコイルに流れる電流の向きを信号にしてるんじゃないのか?
のどに小骨がひっかかったようなモヤモヤ感があった。
ここさえ乗り越えればハムバッカーの原理に納得できるところまできているのだが、そのあと一歩を突き詰めて書いている記述は残念ながら見当たらなかった。
こういう場合は3通りくらいに分けられる。
1.単に書き忘れた/文字数や根気の関係で書く気がなかった場合
2.既に前提として提示したものから当然に説明できる/敷衍して説明できる場合
3.素人読者に理解できない程、難解な事象に踏み込むため書かなかった場合
まず3は専門家がかみ砕いて説明しているようなサイトにも載っていなかったので、説明しきれるかはともかく論理背景として触れておくのも怠るということは考えにくいので除外していいだろう。
1については否定しにくいし、いくつかはこれが理由になっていたかもしれないがが、そろいもそろってものぐさが理由で書かないというのもやはり考えにくい。
ならばあとは2だろう。というか自分にできそうなことと言えばこれくらいで、基礎理論に立ち戻って考えれば何かつかめてくるかも知れないと思ってうんうん唸っていた。
そしたらある時ハタと電流が走った。
問題の鍵は弦が強磁性体であることだった。およそ市販されているエレキ楽器の弦は鉄芯にニッケルを巻き付けたものだったり鉄線そのものだったりする。これがピックアップの磁石によって生じる磁界中で振動することによって音が発生する。
で、これはピックアップに積まれた磁石の極性の影響を受けてるのだ。
ピックアップだけで物事を考えているとすっかり忘れていたことだった。
フレットを押さえて弦を弾くと、基音の振動は腹が一個の波になる。現実には倍音振動とかも発生するが、あくまでメインの信号はそうやって作り出される。そう考えると、それぞれのピックアップの上で同時に同じ方向にたわんでいることになる。ピックアップが少し離れた場所にあったとしても、ポールピースの向きが逆ならそれぞれのピックアップで受け取る信号の位相は逆になるのである。
一方でノイズの元となる電磁波は、これらのピックアップによって生じる磁界とは独立な発生源から放射されたものであり、他の要因を考えないならば、それぞれのピックアップで受け取ったノイズの電磁波はフロントとリアのピックアップについている巻きの向きが違うそれぞれのコイルにたいして逆向きに誘導電流を生じさせる。
つまりはこういうことだったらしい。
マクスウェル方程式だのまで引っ張り出す必要がなくてホッとしたが、どうも原理とか結果だけ説明されて、分かった気になっても実際の物理現象として何が起こってるかまできちんと想像できるようにしておかないと、このようなふとした疑問からドツボにはまることが多くて大変なのだ。
もう少し利口になりたいものである。
”Get.”だけの命令文は成立するか、という話。
2019年5月26日 日常タイトルは少し前に兄とちょっとした言い合いになった話。
状況を整理すると以下のようになる。
・相手は日本語を話さない人物で少し離れたところから「コレ、あなたの物でしょうケド。要らないなら私がもらいます」という雰囲気のジェスチャーなり言外の意思表示をしている。
・兄はそれに対し「あげますよ」という意味で”Get”と返す、と語った。
兄の中ではネイティブに対して当然に(You)get (it).の命令文として認識されるハズだというのだが、僕の中ではハッキリ言って何が言いたいのか分からない意味不明な返答になっているから当然にはならないだろう、と言って揉めた。
Getは多義語なのだが共通するイメージは”近づいたり、同一化したりする”のが基本なので、それだけポンと投げられても、
I will get there.(そっちいきます)
I will get it.(欲しいです)
I get it.(分かりました)
とかいろいろ解釈の余地がある中で当然に命令文の
(You) get it.
に帰着するというのは暴論に過ぎるだろう。
というかまずもって他動詞の目的語は省略できないのでGetだけではBroken Englishになるだろうといったら、その点は兄も素直に認めた。
しかし、ネイティブなら分かってくれるはずという彼の身勝手な心象を変えることは出来なかった。
ということで私は少し論理的な反論を試みた。
まず大前提として英語という言語は意図を伝える為に構文が重視されている為、単語一つで文として成立するのは少数の許可されたものだけのはずだ。たとえば、
・単語一つで機能する構文について
・Woops!やJesus!のような間投詞。
・疑問文に対する返答で重複部分を省略した場合。
・自動詞の命令文。
とかこのへんになる。
まず兄の言う”Get”は間投詞ではないし意味内容も不適切。
疑問文の返答にしては、あちらの疑問文について主語が不明である。
「アナタこれ持っていく?(Do you ~~?の疑問文)」と「私これ貰っていい?(May I ~~?の疑問文)」のどちらの意図でジェスチャーしているか言語化されていないので、主語の省略などは普通不可能。
また”Get”の自動詞としての意味には「取得する」という意味がないので、「持っていけ」という意味にはならない。ただ自動詞としての働きはあるので、自動詞の用法として考えうる一番語数の近い命令文は
You, get! (失せろ)
というほぼ意図とは真逆の返答になる。
繰り返しになるが本来、取得するという意図を正確にしたいなら用法は他動詞であり、目的語を省略できないから代名詞のitなどは必須のはずだ。
Get it.
なら命令文として通じなくもないだろう。
最悪、Broken English で通そうとするにしても単語のチョイスが悪い気がする。
こういう場合GetではなくGiveを使うべきではないだろうか。
などという話を小一時間したのだが、結局、兄は(その予定もないだろう)ネイティブに確かめるまで当初の主張(つまり、ネイティブならこちらの意図を汲んで「持って行っていい」という意味で受け取って当然)は曲げる気がないらしかった。
いつかそういう機会が来た時には今日のことなどすっかり忘れているに違いない。
状況を整理すると以下のようになる。
・相手は日本語を話さない人物で少し離れたところから「コレ、あなたの物でしょうケド。要らないなら私がもらいます」という雰囲気のジェスチャーなり言外の意思表示をしている。
・兄はそれに対し「あげますよ」という意味で”Get”と返す、と語った。
兄の中ではネイティブに対して当然に(You)get (it).の命令文として認識されるハズだというのだが、僕の中ではハッキリ言って何が言いたいのか分からない意味不明な返答になっているから当然にはならないだろう、と言って揉めた。
Getは多義語なのだが共通するイメージは”近づいたり、同一化したりする”のが基本なので、それだけポンと投げられても、
I will get there.(そっちいきます)
I will get it.(欲しいです)
I get it.(分かりました)
とかいろいろ解釈の余地がある中で当然に命令文の
(You) get it.
に帰着するというのは暴論に過ぎるだろう。
というかまずもって他動詞の目的語は省略できないのでGetだけではBroken Englishになるだろうといったら、その点は兄も素直に認めた。
しかし、ネイティブなら分かってくれるはずという彼の身勝手な心象を変えることは出来なかった。
ということで私は少し論理的な反論を試みた。
まず大前提として英語という言語は意図を伝える為に構文が重視されている為、単語一つで文として成立するのは少数の許可されたものだけのはずだ。たとえば、
・単語一つで機能する構文について
・Woops!やJesus!のような間投詞。
・疑問文に対する返答で重複部分を省略した場合。
・自動詞の命令文。
とかこのへんになる。
まず兄の言う”Get”は間投詞ではないし意味内容も不適切。
疑問文の返答にしては、あちらの疑問文について主語が不明である。
「アナタこれ持っていく?(Do you ~~?の疑問文)」と「私これ貰っていい?(May I ~~?の疑問文)」のどちらの意図でジェスチャーしているか言語化されていないので、主語の省略などは普通不可能。
また”Get”の自動詞としての意味には「取得する」という意味がないので、「持っていけ」という意味にはならない。ただ自動詞としての働きはあるので、自動詞の用法として考えうる一番語数の近い命令文は
You, get! (失せろ)
というほぼ意図とは真逆の返答になる。
繰り返しになるが本来、取得するという意図を正確にしたいなら用法は他動詞であり、目的語を省略できないから代名詞のitなどは必須のはずだ。
Get it.
なら命令文として通じなくもないだろう。
最悪、Broken English で通そうとするにしても単語のチョイスが悪い気がする。
こういう場合GetではなくGiveを使うべきではないだろうか。
などという話を小一時間したのだが、結局、兄は(その予定もないだろう)ネイティブに確かめるまで当初の主張(つまり、ネイティブならこちらの意図を汲んで「持って行っていい」という意味で受け取って当然)は曲げる気がないらしかった。
いつかそういう機会が来た時には今日のことなどすっかり忘れているに違いない。
きょう未明、北海道で直下型の地震があったらしい。
その時、東北地方に住むわたしは眠りこけて全く知る由もなかったのだが、最高震度7を記録しており、分かっているだけでも9名と少なくない死者もでている。
それに伴って、北海道全体の電力供給をするうえで要石となっている火力発電所が火災や機材破損の影響で停止し、道内全体の電力需給バランスをとっているシステムが大幅に需要過多に傾き、他所の発電所の出力を引き上げ、それでもバランスを取ることは出来ず、道内に偏在する各発電所の発電機が過負荷による機材損傷を防ぐ機能が連鎖的に働き動作を停止、道内一帯で電力供給がストップするブラックアウトという現象に陥ったらしい。
こういう事態になる前に慈善的に供給先を絞る措置が組み込まれていれば今回のような事態を防げただろう、などと知人らは暢気なことをいっていたけれど、もっとこう現地付近の罹災状況とか胸を痛めてみせるとか、運用系におけるフェイルセーフがきちんと動作したことを誉めるとかそういう人であって欲しいとは思う。
その時、東北地方に住むわたしは眠りこけて全く知る由もなかったのだが、最高震度7を記録しており、分かっているだけでも9名と少なくない死者もでている。
それに伴って、北海道全体の電力供給をするうえで要石となっている火力発電所が火災や機材破損の影響で停止し、道内全体の電力需給バランスをとっているシステムが大幅に需要過多に傾き、他所の発電所の出力を引き上げ、それでもバランスを取ることは出来ず、道内に偏在する各発電所の発電機が過負荷による機材損傷を防ぐ機能が連鎖的に働き動作を停止、道内一帯で電力供給がストップするブラックアウトという現象に陥ったらしい。
こういう事態になる前に慈善的に供給先を絞る措置が組み込まれていれば今回のような事態を防げただろう、などと知人らは暢気なことをいっていたけれど、もっとこう現地付近の罹災状況とか胸を痛めてみせるとか、運用系におけるフェイルセーフがきちんと動作したことを誉めるとかそういう人であって欲しいとは思う。
この長い長い下り坂を、というくだりで有名な僕の思春期の頃の曲を久しぶりにふと耳にして、どこかノスタルジックな気持ちで聞いていると五時半の夕焼けが歌詞に出てきた。
暑い夏の時期を考えていたけれど、そうなるとこの曲にあるような五時半に夕焼けは見られないだろうからこれは随分と日の進んだ、ともすれば晩夏の頃か、とひとり納得していたのだが、どことなく引っかかってしまって、ちょうど全国各地の日の入りの時間を算出できるサイトを発見したので5時半ごろに夕焼けを見られるのはいつ頃なのかと検索するとなんと日の入りの比較的早い緯度の高い地域、北海道や東北地方で9月の16日前後であることが判明した。
関東や近畿以南ではもっとずっと後のことになる。
それで、じゃあ9月半ばで夏かといわれるとさすがに肌寒くもなる秋だろうと思う。南方ではもっと時期が遅いから残暑を感じているとしても時期は下るので、すわ夏かといわれると首を捻るところでもある。
同様の疑問を誰か提起しなかったかと検索してみれば出るわ出るわ、テレビでもそういう指摘が上がっていたくらい有名な話らしかった。今更目新しい話題でもないのだが、事あるごとに指摘される方も大変だ。
いやいや、そうじゃない。
なにかこう批判的な気持ちでいるわけではなくこの歌詞では五時半の夕焼けでいいのだろうと私は思う。
たとえこの「五時半」が六時、七時では歌詞の語呂が悪くなるからだという理由だったとしても、こうした叙情的な詩についてはある種のロマンティックなファンタジーが逆に人をとらえる魅力になっているのかもしれないなと思った今日この頃。
暑い夏の時期を考えていたけれど、そうなるとこの曲にあるような五時半に夕焼けは見られないだろうからこれは随分と日の進んだ、ともすれば晩夏の頃か、とひとり納得していたのだが、どことなく引っかかってしまって、ちょうど全国各地の日の入りの時間を算出できるサイトを発見したので5時半ごろに夕焼けを見られるのはいつ頃なのかと検索するとなんと日の入りの比較的早い緯度の高い地域、北海道や東北地方で9月の16日前後であることが判明した。
関東や近畿以南ではもっとずっと後のことになる。
それで、じゃあ9月半ばで夏かといわれるとさすがに肌寒くもなる秋だろうと思う。南方ではもっと時期が遅いから残暑を感じているとしても時期は下るので、すわ夏かといわれると首を捻るところでもある。
同様の疑問を誰か提起しなかったかと検索してみれば出るわ出るわ、テレビでもそういう指摘が上がっていたくらい有名な話らしかった。今更目新しい話題でもないのだが、事あるごとに指摘される方も大変だ。
いやいや、そうじゃない。
なにかこう批判的な気持ちでいるわけではなくこの歌詞では五時半の夕焼けでいいのだろうと私は思う。
たとえこの「五時半」が六時、七時では歌詞の語呂が悪くなるからだという理由だったとしても、こうした叙情的な詩についてはある種のロマンティックなファンタジーが逆に人をとらえる魅力になっているのかもしれないなと思った今日この頃。
疑問に思ったため空はなぜ青いのか、を詳しく調べなおした。
端的に言うと太陽光は高エネルギーの電磁波であり、そのうち生体にとって危険なものが地球の磁気が作る放射線空間であるヴァン・アレン帯によって除去され、残されたもののうち紫外線や青色光線は大気中の分子によって散乱させられる。
他の散乱されなかった輝線はほとんどが電磁波としてそのまま地表に到達しているがこれは分光されていないため人間の目には色として処理されない一方、分光された青色とその周辺色だけが目に映る色として空に映るのである。
夕暮れ時などは地表と太陽の位置関係上、斜めに光が透過してくる為、通過する空気層が厚くなり、もっと表層の方で青色光線は散乱され切ってしまい赤色光線が主要な輝線として目に映るようになる。
ではもう一歩踏み込んでみよう。
まず人間の目には錐体細胞と桿体細胞がある。
前者は明所における色を感知する細胞で、後者は暗所における形を感知する細胞だ。
そして錐体細胞からなる錐体には三つあり、それぞれ感知する波長の特徴によって赤錐体、緑錐体、青錐体とよばれる。錐体で受け取った電磁波を信号に変換して視神経に受け渡しそこから大脳の視覚連合野で情報として処理されてようやく人間の視覚がクオリアとして再現される。
これが有名なRGBチャンネルなど、色情報の為に光の3原色の比率を用いる理由である。
ただし、白く見える状態を作り出すには赤緑青を適切な比率で配合すれば人間の目に十分白く見えてしまうらしい。
太陽光の自然な白色はほぼすべての波長の可視光線が混ざってできているのに対し、これら不連続な波長の光線だけで白くみせる光を疑似白色と呼ぶ。
ーー
中断
端的に言うと太陽光は高エネルギーの電磁波であり、そのうち生体にとって危険なものが地球の磁気が作る放射線空間であるヴァン・アレン帯によって除去され、残されたもののうち紫外線や青色光線は大気中の分子によって散乱させられる。
他の散乱されなかった輝線はほとんどが電磁波としてそのまま地表に到達しているがこれは分光されていないため人間の目には色として処理されない一方、分光された青色とその周辺色だけが目に映る色として空に映るのである。
夕暮れ時などは地表と太陽の位置関係上、斜めに光が透過してくる為、通過する空気層が厚くなり、もっと表層の方で青色光線は散乱され切ってしまい赤色光線が主要な輝線として目に映るようになる。
ではもう一歩踏み込んでみよう。
まず人間の目には錐体細胞と桿体細胞がある。
前者は明所における色を感知する細胞で、後者は暗所における形を感知する細胞だ。
そして錐体細胞からなる錐体には三つあり、それぞれ感知する波長の特徴によって赤錐体、緑錐体、青錐体とよばれる。錐体で受け取った電磁波を信号に変換して視神経に受け渡しそこから大脳の視覚連合野で情報として処理されてようやく人間の視覚がクオリアとして再現される。
これが有名なRGBチャンネルなど、色情報の為に光の3原色の比率を用いる理由である。
ただし、白く見える状態を作り出すには赤緑青を適切な比率で配合すれば人間の目に十分白く見えてしまうらしい。
太陽光の自然な白色はほぼすべての波長の可視光線が混ざってできているのに対し、これら不連続な波長の光線だけで白くみせる光を疑似白色と呼ぶ。
ーー
中断
ソシャゲガチャの在り方
2018年8月26日 日常最近の話だ。
ソシャゲのガチャに二十六万円を使ったというようなツイートが流れてきた。
嘘か誠かは確かめようがないが、ありえなくもない話かなとは思う。
今は法規制もあって、ガチャの確率を表記されるようになっていて実際の試行による確率もあまりかけ離れたものにはなっていないはずなのだが、コンプガチャや有利誤認表示が規制されているのみであり、確率自体を低いものにするのは規制されていない。
また日本オンラインゲーム協会という団体がいわゆるソシャゲガチャを実装するにあたって企業側が顧客に開示すべき情報、ガチャの設定、運用に関する事項などを定めたガイドラインというものを発表している。
その中には有料ガチャにおける金額面についての項目もある。これはつぶさにみていくと結構面白い。参考の為に読者らにも見ていただきたい。
さて、この文言の中には入手までに掛かる推定金額について表示するように書いてある。なるほど、じゃあ表示してくださいという思うのが普通の人だと思うがこれは高校数学で習ったように[ガチャで引ける確率]掛ける[消費した金額]で期待値を算出しようとしても全事象をのはじっこ、一生引けない場合には金額も発散してしまうため簡単には算出できない。
いわゆるサンクトペテルブルグのパラドックスというものにはまってしまうのだ。
従ってこのパラドックスを解消する為に、どこかで標本空間を有限回に区切ってしまわなければならないということになる。
逆に言えば標本空間を有限回の試行に区切ってさえしまえば、ガチャが無限回引かれるという想定を見直して、有限回しか引かれないと仮定しさえすれば期待値は発散せず遥かに小さい値に収まる(らしい)。
それで、この種のガチャがどれくらい引かれるのかというのは過去の同様のガチャによる企業の情報の蓄積から概ね算出できるはずなのだが、実際に出るまでの推定金額を表示しているアコギなガチャは少ないように思う。
単にアコギなガチャが少ないのか、アコギなガチャは相当数あるものの、このガイドラインの存在によって推定金額を表示することがすなわちアコギなガチャである証明の様に思われる可能性もあり表示していないのか、あるいは、そこはやはり一団体が作るガイドラインの拘束力のなさゆえなのか、いろいろと疑いは尽きない。
そうそう、冒頭で述べたあるガチャでアタリの一枚目を引くために26万使う人間が実際にどのくらいの確率で現れるのかといえばザックリと1.3%くらいの確率だった。意外と多いな、おい。
射幸心を煽るガチャという文化はなかなかよくできたアブナイ産業だとは思う。
そんなことを考えていた今日この頃。
ソシャゲのガチャに二十六万円を使ったというようなツイートが流れてきた。
嘘か誠かは確かめようがないが、ありえなくもない話かなとは思う。
今は法規制もあって、ガチャの確率を表記されるようになっていて実際の試行による確率もあまりかけ離れたものにはなっていないはずなのだが、コンプガチャや有利誤認表示が規制されているのみであり、確率自体を低いものにするのは規制されていない。
また日本オンラインゲーム協会という団体がいわゆるソシャゲガチャを実装するにあたって企業側が顧客に開示すべき情報、ガチャの設定、運用に関する事項などを定めたガイドラインというものを発表している。
その中には有料ガチャにおける金額面についての項目もある。これはつぶさにみていくと結構面白い。参考の為に読者らにも見ていただきたい。
3. 有料ガチャの設定に関する事項
(1)有料ガチャにおいてガチャレアアイテムを提供する場合、以下のいずれかを遵守するものとする。
□ a. いずれかのガチャレアアイテムを取得するまでの推定金額(その設定された提供割合から期待値として算定され
る金額をいう)の上限は、有料ガチャ1回あたりの課金額の 100 倍以内とし、当該上限を超える場合、ガチ
ャページにその推定金額または倍率を表示する。
□ b. いずれかのガチャレアアイテムを取得するまでの推定金額の上限は 50,000 円以内とし、当該上限を超える
場合、ガチャページにその推定金額を表示する。
□ c. ガチャレアアイテムの提供割合の上限と下限を表示する。
□ d. ガチャアイテムの種別毎に、その提供割合を表示する。
(2)有料ガチャについては、以下のいずれかを遵守するものとします。なお、有料ガチャにより提供されるガチャアイテムの価
値について、その価額が明記されていない場合、可能な限りにおいて、その類似または同類のアイテム等の価額を参照
するものとする。
□ a. 有料ガチャ1回利用時に提供されるガチャアイテムの価値は、有料ガチャ1回の価額と同等またはそれ以上と
する。
□ b. 有料ガチャ 10 回利用時に提供されるガチャアイテムの提供割合の期待値上の価値は、有料ガチャ 10 回の
価額と同等またはそれ以上とする。
□ c. 有料ガチャの利用金額の総計が 5,000 円の場合、有料ガチャから提供されるガチャアイテムの提供割合の
期待値上の価値は、5,000 円と同等またはそれ以上とする。
(3)何らのガチャアイテムが提供されない可能性がある有料ガチャの提供は行わない。
(引用元 日本オンラインゲーム協会HPランダム型アイテム提供方式を利用したアイテム販売における表示および運営ガイドラインより一部抜粋。url: https://japanonlinegame.org/joga_guideline/joga-guideline/)
さて、この文言の中には入手までに掛かる推定金額について表示するように書いてある。なるほど、じゃあ表示してくださいという思うのが普通の人だと思うがこれは高校数学で習ったように[ガチャで引ける確率]掛ける[消費した金額]で期待値を算出しようとしても全事象をのはじっこ、一生引けない場合には金額も発散してしまうため簡単には算出できない。
いわゆるサンクトペテルブルグのパラドックスというものにはまってしまうのだ。
従ってこのパラドックスを解消する為に、どこかで標本空間を有限回に区切ってしまわなければならないということになる。
逆に言えば標本空間を有限回の試行に区切ってさえしまえば、ガチャが無限回引かれるという想定を見直して、有限回しか引かれないと仮定しさえすれば期待値は発散せず遥かに小さい値に収まる(らしい)。
それで、この種のガチャがどれくらい引かれるのかというのは過去の同様のガチャによる企業の情報の蓄積から概ね算出できるはずなのだが、実際に出るまでの推定金額を表示しているアコギなガチャは少ないように思う。
単にアコギなガチャが少ないのか、アコギなガチャは相当数あるものの、このガイドラインの存在によって推定金額を表示することがすなわちアコギなガチャである証明の様に思われる可能性もあり表示していないのか、あるいは、そこはやはり一団体が作るガイドラインの拘束力のなさゆえなのか、いろいろと疑いは尽きない。
そうそう、冒頭で述べたあるガチャでアタリの一枚目を引くために26万使う人間が実際にどのくらいの確率で現れるのかといえばザックリと1.3%くらいの確率だった。意外と多いな、おい。
射幸心を煽るガチャという文化はなかなかよくできたアブナイ産業だとは思う。
そんなことを考えていた今日この頃。
いつも思うのだが、○○を食べるだけ、とか○○を抜くだけ、とか安直なエセ食事療法はいつまで人心を掴んでいられるのだろうか。
あるいはこういう言説は確かに表現の自由ではあるけれど、風説の流布が与える社会的な歪みが計量できないがゆえに罰されないだけであって原理的には悪説といえるのではないだろうか。
昨今、取沙汰されていたグルテンフリーというのもその一つらしく、タスマニア大学がサイクリスト(自転車競技者)の集団を使って二重盲検法で実験した結果グルテンフリーの集団はグルテンを摂取した集団と何ら変わりがなかったという論文を発表した。
※ニュースリリース(url)
https://arstechnica.com/science/2016/01/gluten-free-sports-diets-do-nothing-study-suggests/
私は太りにくい体質なので、あまりそうした食事療法に神経を使うことがないのだが、脂肪がついたからといって、運動すればいいだけではないかと日頃から思ってしまう。
あるいはこういう言説は確かに表現の自由ではあるけれど、風説の流布が与える社会的な歪みが計量できないがゆえに罰されないだけであって原理的には悪説といえるのではないだろうか。
昨今、取沙汰されていたグルテンフリーというのもその一つらしく、タスマニア大学がサイクリスト(自転車競技者)の集団を使って二重盲検法で実験した結果グルテンフリーの集団はグルテンを摂取した集団と何ら変わりがなかったという論文を発表した。
※ニュースリリース(url)
https://arstechnica.com/science/2016/01/gluten-free-sports-diets-do-nothing-study-suggests/
私は太りにくい体質なので、あまりそうした食事療法に神経を使うことがないのだが、脂肪がついたからといって、運動すればいいだけではないかと日頃から思ってしまう。
熱意だの情熱だのが足りないと辛気臭いことを言っていた私としても今年の夏の甲子園はちょこちょこと中継を覗いていた。
白河越えのチャンスは2012年の光星学院(青森)以来の6年ぶりであったらしいが残念ながら金足農は大阪桐蔭に大敗を喫した。
2004年、翌年5年にも駒大苫小牧が優勝旗を手にしているので白河越え自体はなったじゃんと個人的に思わなくもないが、陸路がどうのこうのと訳のわからんことを言う人が世間にはいるらしい。
とはいえ、なんとなく大阪に所縁のない人たちはこぞって金足農(秋田)を応援していたんじゃないかというような異様な空気、プレッシャーの中であれだけのパフォーマンスを発揮した大阪桐蔭の選手らには称賛しかないのも事実である。
甲子園の優勝投手はなかなか大成しないと言われることもあるが、必ずしも正しいとはいえない。
しかし、一面では正しい。昨今の高校野球においても大会を通して一人で投げる大エース型のチームでは勝ち切るのが難しくなってきているのもまた事実である。
複数の投手で継投するチームは大エース型のチームよりも大会終盤における疲労の蓄積を抑えることができる。決勝ともなればその差は如実に現れるため、アドバンテージは計り知れないのだ。ただやはり優勝投手といえどプロに行くと軟投型は簡単に打ち崩される場面が多く、よほどキレのある変化球を持つか、一人で落差を作り出せる豪速球持ちでなければ先発登板を任されるほど活躍することは少ないという面を見ればこうした言説が生まれたのも納得できる次第である。
一方、大エース型のチームの優勝例としては田中将大や松坂大輔など、ほんの僅かなビッグネームのみがなし得る偉業とも言える。
今回、吉田投手がそれをなしえれば、それは球史に名を残すことが約束されるに等しい一握りの英雄になれただけに、それに期待し、金足農を応援した人々の思いの丈も充分に推し量ることができようものである。
白河越えのチャンスは2012年の光星学院(青森)以来の6年ぶりであったらしいが残念ながら金足農は大阪桐蔭に大敗を喫した。
2004年、翌年5年にも駒大苫小牧が優勝旗を手にしているので白河越え自体はなったじゃんと個人的に思わなくもないが、陸路がどうのこうのと訳のわからんことを言う人が世間にはいるらしい。
とはいえ、なんとなく大阪に所縁のない人たちはこぞって金足農(秋田)を応援していたんじゃないかというような異様な空気、プレッシャーの中であれだけのパフォーマンスを発揮した大阪桐蔭の選手らには称賛しかないのも事実である。
甲子園の優勝投手はなかなか大成しないと言われることもあるが、必ずしも正しいとはいえない。
しかし、一面では正しい。昨今の高校野球においても大会を通して一人で投げる大エース型のチームでは勝ち切るのが難しくなってきているのもまた事実である。
複数の投手で継投するチームは大エース型のチームよりも大会終盤における疲労の蓄積を抑えることができる。決勝ともなればその差は如実に現れるため、アドバンテージは計り知れないのだ。ただやはり優勝投手といえどプロに行くと軟投型は簡単に打ち崩される場面が多く、よほどキレのある変化球を持つか、一人で落差を作り出せる豪速球持ちでなければ先発登板を任されるほど活躍することは少ないという面を見ればこうした言説が生まれたのも納得できる次第である。
一方、大エース型のチームの優勝例としては田中将大や松坂大輔など、ほんの僅かなビッグネームのみがなし得る偉業とも言える。
今回、吉田投手がそれをなしえれば、それは球史に名を残すことが約束されるに等しい一握りの英雄になれただけに、それに期待し、金足農を応援した人々の思いの丈も充分に推し量ることができようものである。
ヌルデを切ってきた。
2018年8月18日 日常お盆を利用して久し振りに両親と鎌倉に行ってきた。
以前紹介したヨットの模型は形見分けの折に親戚の誰かが持っていったようで現在の所在は不明である。残念だが仕方ない。
昨日、一昨日と更新出来なかったのはこの鎌倉急行の所為なのであるが幸い書くことは決めてあるのでそちらも忘れないうち、早いうちに書いておきたいと思う。
それでまあ、鎌倉は父の実家に当たるのだが滞在時間でいえばそんなに長居はしていない。せいぜい6時間くらいだろうか。その間にしたことといえば庭木のヌルデの木の剪定である。どうも懇意にしていた庭園業者が廃業したらしく、そのときは1日でざっくりと5万でやってもらっていたらしいのだが、今の相場では10万以上、木一本で2万というような業者が多いと言っていた。
それで親戚筋の貴重な男手として駆り出されてきたのである。
作業を命じられたのは庭先にあるヌルデの木。大きな枝が電線にも届こうかというところまでなっていたので、それは根元からバッサリ伐った。作業をしていると祖母がしきりに心配して、ヌルデは恐ろしいよ。素手で触るとかぶれるよと言う。樹皮を触っていてかぶれるような痒みは出なかったが、あまりにもしきりにいうので切った枝を細かくして縛る頃には軍手をはめさせられた。
のちになって調べてみるとヌルデはウルシ科で樹液にあのウルシかぶれの症状があるらしいが、樹皮に触れるだけだとかぶれたりかぶれなかったり人それぞれのようだ。
この厄介な木はいつ頃植えたのかと聞くと植えていない。勝手に生えてきたと父が言った。裏山が近いので然もありなん。葉っぱの形が少しユニークというか変わっていて、庭木にする利点といえばあとは育てるのに手がかからないことくらいか。ウルシの防御機序は強そうだ。
都市部のマンションに住んでいるとあまりない経験だが郊外の庭付き戸建に住めばこういうことはままある。仙台の方でも少し外れの家には裏山からだろうか。ここ一、二年の間に何度か松が庭先に生えて刈ったのだが、いま鉢に植わっているヤツは既に全高1mほどに枝葉を伸ばしている。
かぶれといえば、今日まで症状が出ることもなくその点は良いのだが作業中に10箇所以上も虫に刺され、耐え難い痒みに身をよじる日々である。
以前紹介したヨットの模型は形見分けの折に親戚の誰かが持っていったようで現在の所在は不明である。残念だが仕方ない。
昨日、一昨日と更新出来なかったのはこの鎌倉急行の所為なのであるが幸い書くことは決めてあるのでそちらも忘れないうち、早いうちに書いておきたいと思う。
それでまあ、鎌倉は父の実家に当たるのだが滞在時間でいえばそんなに長居はしていない。せいぜい6時間くらいだろうか。その間にしたことといえば庭木のヌルデの木の剪定である。どうも懇意にしていた庭園業者が廃業したらしく、そのときは1日でざっくりと5万でやってもらっていたらしいのだが、今の相場では10万以上、木一本で2万というような業者が多いと言っていた。
それで親戚筋の貴重な男手として駆り出されてきたのである。
作業を命じられたのは庭先にあるヌルデの木。大きな枝が電線にも届こうかというところまでなっていたので、それは根元からバッサリ伐った。作業をしていると祖母がしきりに心配して、ヌルデは恐ろしいよ。素手で触るとかぶれるよと言う。樹皮を触っていてかぶれるような痒みは出なかったが、あまりにもしきりにいうので切った枝を細かくして縛る頃には軍手をはめさせられた。
のちになって調べてみるとヌルデはウルシ科で樹液にあのウルシかぶれの症状があるらしいが、樹皮に触れるだけだとかぶれたりかぶれなかったり人それぞれのようだ。
この厄介な木はいつ頃植えたのかと聞くと植えていない。勝手に生えてきたと父が言った。裏山が近いので然もありなん。葉っぱの形が少しユニークというか変わっていて、庭木にする利点といえばあとは育てるのに手がかからないことくらいか。ウルシの防御機序は強そうだ。
都市部のマンションに住んでいるとあまりない経験だが郊外の庭付き戸建に住めばこういうことはままある。仙台の方でも少し外れの家には裏山からだろうか。ここ一、二年の間に何度か松が庭先に生えて刈ったのだが、いま鉢に植わっているヤツは既に全高1mほどに枝葉を伸ばしている。
かぶれといえば、今日まで症状が出ることもなくその点は良いのだが作業中に10箇所以上も虫に刺され、耐え難い痒みに身をよじる日々である。
回転ずしというのはなかなか面白い業界で大手チェーンといわれているのは親会社など根っこで他の外食産業と繋がっている。
4大チェーンといえば「かっぱ寿司」「はま寿司」「くら寿司」「スシロー」だろうが、親会社はそれぞれ「コロワイド」「ゼンショーホールディングス」「くらコーポレーション」「神明」となっていて、くら寿司のみが独立独歩で展開しているといえる。(2018/8/20現在)
コロワイドはグループ会社に焼肉チェーン店の牛角を要するレインズコーポレーションを持ち、ゼンショーはかの悪名高きワンオペを行ったすき屋を擁するほか、COCO’sやなか卯なども系列企業となっているのだが、2007年頃にはスシローを買収していた過去がある。神明はかつて、かっぱ寿司を買収したのだが、業界五位の「元気寿司」との統合に失敗しコロワイドに売却し、昨年2017年にはスシローと元気寿司の資本業務提携を行うと発表している。
スシローは特に企業売買においては身売りした回数がかなり多いため神明がいつまで保持するかは興味を持って見ている状況だ。
余談だが、それぞれの系列について私感を述べる。
まずスシローだが、数年前に外資が経営していた頃の近所のスシローで出された品は寿司とも呼べないマズさだったため私は怒って店を出たことがある。以来、スシローにはいっていないので親会社が変わったことで何か現場にもいい影響が出ていればいいのだがとは思う。ネタがファミリー層向けなのかどうかは知らないがやけにサーモンばかり流れているのでお寿司を食いに来た感じがしない。回転ずしという別種のアイデンティティを確立しようとしているのかもしれない。
はま寿司は江戸前の考え方なのかネタの仕込みがしてある分、一貫が小さい感じがしてどうも満足感には欠けるし、損失を減らす企業努力なのか足の早い光物なんかは注文しなければほとんど流れてこないイメージでこれは都市部の店舗などでは違うのであろうが私としては席に着いた時になんとなく箸が進まないのがこの系列である。不幸中の幸いか、寿司自体はマズくはないので現状一番マシといったところか。
かっぱ寿司は昔はそこそこ美味しかったのだが、業界全体が過当競争になるにつれ、ネタの質を大幅に落としたため今では大して美味しくないし、足が向かなくなった系列である。
そして、くら寿司だが、なんと私はまだ行ったことがないので分からない。
たまたま近所にないのか、そもそも店舗数が他のチェーンに比べて少ないのかとにかくお店に足を運んでみないことには批評もできないのだが、ネットに出回る写真にはシャリ野菜だとかインスタ映え寿司だとか変にキャッチーな食欲をそそらない寿司ばかりなのでまだ当分足を運ぶことはないかも知れない。
過当競争の末に品質を落とし客離れを推進する業界というのはまぁ、みるだに人間の愚かさをみるようで楽しい業界ともいえる。
4大チェーンといえば「かっぱ寿司」「はま寿司」「くら寿司」「スシロー」だろうが、親会社はそれぞれ「コロワイド」「ゼンショーホールディングス」「くらコーポレーション」「神明」となっていて、くら寿司のみが独立独歩で展開しているといえる。(2018/8/20現在)
コロワイドはグループ会社に焼肉チェーン店の牛角を要するレインズコーポレーションを持ち、ゼンショーはかの悪名高きワンオペを行ったすき屋を擁するほか、COCO’sやなか卯なども系列企業となっているのだが、2007年頃にはスシローを買収していた過去がある。神明はかつて、かっぱ寿司を買収したのだが、業界五位の「元気寿司」との統合に失敗しコロワイドに売却し、昨年2017年にはスシローと元気寿司の資本業務提携を行うと発表している。
スシローは特に企業売買においては身売りした回数がかなり多いため神明がいつまで保持するかは興味を持って見ている状況だ。
余談だが、それぞれの系列について私感を述べる。
まずスシローだが、数年前に外資が経営していた頃の近所のスシローで出された品は寿司とも呼べないマズさだったため私は怒って店を出たことがある。以来、スシローにはいっていないので親会社が変わったことで何か現場にもいい影響が出ていればいいのだがとは思う。ネタがファミリー層向けなのかどうかは知らないがやけにサーモンばかり流れているのでお寿司を食いに来た感じがしない。回転ずしという別種のアイデンティティを確立しようとしているのかもしれない。
はま寿司は江戸前の考え方なのかネタの仕込みがしてある分、一貫が小さい感じがしてどうも満足感には欠けるし、損失を減らす企業努力なのか足の早い光物なんかは注文しなければほとんど流れてこないイメージでこれは都市部の店舗などでは違うのであろうが私としては席に着いた時になんとなく箸が進まないのがこの系列である。不幸中の幸いか、寿司自体はマズくはないので現状一番マシといったところか。
かっぱ寿司は昔はそこそこ美味しかったのだが、業界全体が過当競争になるにつれ、ネタの質を大幅に落としたため今では大して美味しくないし、足が向かなくなった系列である。
そして、くら寿司だが、なんと私はまだ行ったことがないので分からない。
たまたま近所にないのか、そもそも店舗数が他のチェーンに比べて少ないのかとにかくお店に足を運んでみないことには批評もできないのだが、ネットに出回る写真にはシャリ野菜だとかインスタ映え寿司だとか変にキャッチーな食欲をそそらない寿司ばかりなのでまだ当分足を運ぶことはないかも知れない。
過当競争の末に品質を落とし客離れを推進する業界というのはまぁ、みるだに人間の愚かさをみるようで楽しい業界ともいえる。
夢の中で夢を見るという稀有な体験をした。
歳をとったせいか最近は何かにつけて古い友人たちの夢をみるのだが、今回は少し様子が違って登場人物は知らない人ばかりだった。
何故、夢の中で夢を見たということが分かったのかというのも一つ不思議な感覚であるが、これは今自分が住んでいる部屋がそのまま夢に登場し、かつ自分が寝ているというところから始まっているからだ。
つまり、
シーンA → シーンB(自分の普段の部屋/再現度が異常に高い) → 実際の起床
という意識の切り替えが起こって、そこにいるはずのない人達が自分の部屋にいてそれを自然に受け入れているというのはやはり夢の中特有の支離滅裂さである。
シーンAはなんだっただろうか、高校時代のハンドボールに打ち込んでいた時の記憶に近いものがあったが、それもやはり少なからず奇妙な点があって、あとで思い返せばそんな馬鹿な、やっぱり夢かという話で落ち着く。
今になって整理してみれば、夢の中で夢を見たという構成ではなく、夢から覚めた時と限りなく近い状況を夢で見た、ということになる。
これで起きた時に見知らぬ人がまだ部屋にいたというなら夏の夜の怪談話にもなろうが、いや、そのような状況で平然と日記など更新できるはずもないのだから結局夢は夢で良かったのだろう。
しかし、つくづく不思議な気持ちにさせられる夢でもあった。
歳をとったせいか最近は何かにつけて古い友人たちの夢をみるのだが、今回は少し様子が違って登場人物は知らない人ばかりだった。
何故、夢の中で夢を見たということが分かったのかというのも一つ不思議な感覚であるが、これは今自分が住んでいる部屋がそのまま夢に登場し、かつ自分が寝ているというところから始まっているからだ。
つまり、
シーンA → シーンB(自分の普段の部屋/再現度が異常に高い) → 実際の起床
という意識の切り替えが起こって、そこにいるはずのない人達が自分の部屋にいてそれを自然に受け入れているというのはやはり夢の中特有の支離滅裂さである。
シーンAはなんだっただろうか、高校時代のハンドボールに打ち込んでいた時の記憶に近いものがあったが、それもやはり少なからず奇妙な点があって、あとで思い返せばそんな馬鹿な、やっぱり夢かという話で落ち着く。
今になって整理してみれば、夢の中で夢を見たという構成ではなく、夢から覚めた時と限りなく近い状況を夢で見た、ということになる。
これで起きた時に見知らぬ人がまだ部屋にいたというなら夏の夜の怪談話にもなろうが、いや、そのような状況で平然と日記など更新できるはずもないのだから結局夢は夢で良かったのだろう。
しかし、つくづく不思議な気持ちにさせられる夢でもあった。
昭和の作品に思うこと
2018年8月15日 日常昭和でも平成でも良いがメディア作品というのは当時から幾度も不況を経験している為、それらを乗り越えて権利団体なり企業なりが今でも存続しているとは限らないという認識があり、また発表当時からかなり時間が経った作品についてどこが権利を持っているのかなどはエンドユーザーはほとんど意識しないためアニメでもドラマでも映画でもネット上にはかなり多くの版権の怪しい作品が跋扈している。あるいは権者が収益化済みというような抜け道もあるようで、表面的にどう振舞うべきかはさっぱりと分からない。
一応、著作権切れというのは著作権者の死後50年か発表から70年経ったものがおおよその目安となるが、我々が目にするのはどちらもまだまだの作品ばかりである。
著作権法違反は親告罪なのでどのみち当事者の意識が大事ということになってくるのでそこまで気を張る必要もないかも知れない。
とはいえ今回話したいのはそんな話ではなく、昭和の作品、ないしは平成の作品でもいいが、とにかく、現代ではない時代観の感じられる作品群を今になって見返してみるとやはり、イデオロギー論的な論調が数多く見受けられ、それが当時の潮流であり、彼らの人生観であり原動力でもあったというのは何とはなしに伝わってくる気がする。
そういった作品には妥当すべき巨悪というものがあり、それに虐げられる人民がいて、社会のひずみとなって顕在化してくるという一連のテンプレートが存在しているわけだ。
今では盛んにTV放映されている松本清張シリーズというサスペンスドラマがあるが、あの作家もどこかイデオロギー論というか陰謀論めいた構図を多用する為、世の権力者の傲慢、欺瞞によって生み出された犠牲者が社会の歪みとして主人公の目というフィルターを通して描かれているわけだが、TV関係者にとって今の時代にそれはウケないという考えなのか、社会の歪みを表すマクガフィンたる犠牲者が本来筋書き上で死んでいるはずの人物が死んでいなかったり、抑圧されている理由とか形式みたいなものが現代版にアレンジされていたりするのが結構ある。
これは尺の都合というよりもむしろ、現代人の感覚を優先したモデル化をしているのだが、そうなると作家が本来描いていたはずの全体像が大きく変わり、話がどうにも小ぢんまりとした形でまとめられているようで、早い話がスケール観に欠けているように思われた。
最近、このスケール観の違いこそが世代別人口の差、活気の差なのだと気付いた時、なんだかうら寂しいような取り残されたような思いに心沈んでしまったのである。
一応、著作権切れというのは著作権者の死後50年か発表から70年経ったものがおおよその目安となるが、我々が目にするのはどちらもまだまだの作品ばかりである。
著作権法違反は親告罪なのでどのみち当事者の意識が大事ということになってくるのでそこまで気を張る必要もないかも知れない。
とはいえ今回話したいのはそんな話ではなく、昭和の作品、ないしは平成の作品でもいいが、とにかく、現代ではない時代観の感じられる作品群を今になって見返してみるとやはり、イデオロギー論的な論調が数多く見受けられ、それが当時の潮流であり、彼らの人生観であり原動力でもあったというのは何とはなしに伝わってくる気がする。
そういった作品には妥当すべき巨悪というものがあり、それに虐げられる人民がいて、社会のひずみとなって顕在化してくるという一連のテンプレートが存在しているわけだ。
今では盛んにTV放映されている松本清張シリーズというサスペンスドラマがあるが、あの作家もどこかイデオロギー論というか陰謀論めいた構図を多用する為、世の権力者の傲慢、欺瞞によって生み出された犠牲者が社会の歪みとして主人公の目というフィルターを通して描かれているわけだが、TV関係者にとって今の時代にそれはウケないという考えなのか、社会の歪みを表すマクガフィンたる犠牲者が本来筋書き上で死んでいるはずの人物が死んでいなかったり、抑圧されている理由とか形式みたいなものが現代版にアレンジされていたりするのが結構ある。
これは尺の都合というよりもむしろ、現代人の感覚を優先したモデル化をしているのだが、そうなると作家が本来描いていたはずの全体像が大きく変わり、話がどうにも小ぢんまりとした形でまとめられているようで、早い話がスケール観に欠けているように思われた。
最近、このスケール観の違いこそが世代別人口の差、活気の差なのだと気付いた時、なんだかうら寂しいような取り残されたような思いに心沈んでしまったのである。
あまり身近な人がなくなるという経験をしてきていないせいか、あるいは子育てというものを経験していないせいかは知らないが、自分はどうも人の命に関してドライな部分がある。
人の数が星より重いという言葉も過度に誇張された政治的スローガンにに過ぎないというのが私の理解でその言葉の持つ説得力のある人道性というものに同調できないところがある。
よくある哲学問題のトロッコ問題においても同様である。
知らぬ人に説明すると、トロッコ問題とはY字の暴走トロッコの線路の分岐状に1人と3人がいて放っておけば3人が死にそうだが、分岐をいじれば自然状態では死ぬことにならないはずの一人が死ぬという状況下であなたが分岐をいじるか、という設問である。
類問には自動走行中の自動車の進行方向に・・・というものもある。
いずれにせよ、被害が最小限になる瑕疵のある選択肢が与えられた場合、積極的にその選択を取れるかというものだ。
私は人の命はものの数だと思う人間なので、数の少ない方が多い方に比べてよほど気に入った人でない限りは分岐操作をすると思われる。
仮にここで分岐をいじったとしても、故意性は存在するが法的には緊急避難に類するもので殺人罪など大方の違法性は阻却されると思われる。モチロン現場責任者と企業とが故人への賠償を課せられるとは思うがこれは操作とはあまり関係がない。
従って、あとは本人の自責の念をどうするかという問題になってくるが、三人を見殺しにしたとて同様の自責の念から全き解放されるというものでもないため積極的に分岐操作を否定する要素がないのではないだろうかと思ってしまうのである。
人の数が星より重いという言葉も過度に誇張された政治的スローガンにに過ぎないというのが私の理解でその言葉の持つ説得力のある人道性というものに同調できないところがある。
よくある哲学問題のトロッコ問題においても同様である。
知らぬ人に説明すると、トロッコ問題とはY字の暴走トロッコの線路の分岐状に1人と3人がいて放っておけば3人が死にそうだが、分岐をいじれば自然状態では死ぬことにならないはずの一人が死ぬという状況下であなたが分岐をいじるか、という設問である。
類問には自動走行中の自動車の進行方向に・・・というものもある。
いずれにせよ、被害が最小限になる瑕疵のある選択肢が与えられた場合、積極的にその選択を取れるかというものだ。
私は人の命はものの数だと思う人間なので、数の少ない方が多い方に比べてよほど気に入った人でない限りは分岐操作をすると思われる。
仮にここで分岐をいじったとしても、故意性は存在するが法的には緊急避難に類するもので殺人罪など大方の違法性は阻却されると思われる。モチロン現場責任者と企業とが故人への賠償を課せられるとは思うがこれは操作とはあまり関係がない。
従って、あとは本人の自責の念をどうするかという問題になってくるが、三人を見殺しにしたとて同様の自責の念から全き解放されるというものでもないため積極的に分岐操作を否定する要素がないのではないだろうかと思ってしまうのである。
スパティフィラムの株分け
2018年8月13日 日常
ちょっと前にスパティフィラムの株分けを手伝った時の話だ。
プラスチックの黒い鉢から所狭しと緑の茎が覗いていたので株分けをすることとなった。本来はこうなる前のもっと早い段階で株分けを行わなければならないそうだが、ズボラな我が家系では鉢の中に既に土がなくなってしまうくらいに根っこがびっしりと埋め尽くしており、いざ鉢から引き抜こうと渾身の力を振り絞ってもびくともしなかったので、結局はプラスチックの鉢本体を破壊する運びとなった。
そして、引き抜かれた写真が横にある画像である。
どことなくエキゾチックな雰囲気すらある生々しい根っこに、ほうと嘆息したものだが、ネットを探せば似たようなことに泣ている人は見つかるものである。
ここからばちばちと根を切り株分けは成功したのだが、この土を食べきってまたあのように増殖していくのかと思うと生命の神秘というのを身近に感じた今日この頃である。
プラスチックの黒い鉢から所狭しと緑の茎が覗いていたので株分けをすることとなった。本来はこうなる前のもっと早い段階で株分けを行わなければならないそうだが、ズボラな我が家系では鉢の中に既に土がなくなってしまうくらいに根っこがびっしりと埋め尽くしており、いざ鉢から引き抜こうと渾身の力を振り絞ってもびくともしなかったので、結局はプラスチックの鉢本体を破壊する運びとなった。
そして、引き抜かれた写真が横にある画像である。
どことなくエキゾチックな雰囲気すらある生々しい根っこに、ほうと嘆息したものだが、ネットを探せば似たようなことに泣ている人は見つかるものである。
ここからばちばちと根を切り株分けは成功したのだが、この土を食べきってまたあのように増殖していくのかと思うと生命の神秘というのを身近に感じた今日この頃である。
私が子供の頃、それも小学低学年の頃の話だ。
当時、確か小学二年生だったと思うが学級通信というものがあった。
担任の先生が一生懸命、その週ごとの体験について児童たちの感想文を拾い集めたものをまとめて保護者に向けて発行していたのだ。
そうはいってもA4なりの藁半紙で印刷されたもので特別感のあるものではない。
ただ、感想文は毎回、40人からなる生徒たちのうちから3~4人をピックアップして原稿用紙一枚分だかの容量をびっちりと書いて載せていたはずだ。
だから、登校日の週が何週あるか分からないが30週ほどはあるとして、だいたい一人3回くらいは載せて貰う機会があったはずだが、私には全くと言っていいほど縁がなかった。
当時の学年文集は手元にないので確かめるようなことは出来ないが、あまり支離滅裂な文章を書き連ねていたわけではないと思う。
落ち着きがなく素行不良というのも確かにあったかも知れないが、手を煩わせたという一事をもって私怨で外されていたというのも考えにくい。
となると、感想文そのものを提出していなかったという可能性もあるにはあるが、さすがに毎週書かされているものを都度都度無視しきったというのも考えにくい。
今もって理由は不明である。
だが、とにかく私の感想文というのはその学級通信においてはただの一度きり。
二年生の最後の最後の週に完全なるお情けで載ったというのが記憶に残っている。
というのも、担任の先生が「初めてすたたくんの文が学級通信にのりました。拍手」のようなことを恩着せがましく言っていたのが記憶の片鱗に残っているのだ。
まず間違いなく自分にとって都合の悪い記憶というが消えているのだとは思うが、こういう風に歳を取っていくのはよくないなぁと的を得ない反省をしている今日この頃でもある。
当時、確か小学二年生だったと思うが学級通信というものがあった。
担任の先生が一生懸命、その週ごとの体験について児童たちの感想文を拾い集めたものをまとめて保護者に向けて発行していたのだ。
そうはいってもA4なりの藁半紙で印刷されたもので特別感のあるものではない。
ただ、感想文は毎回、40人からなる生徒たちのうちから3~4人をピックアップして原稿用紙一枚分だかの容量をびっちりと書いて載せていたはずだ。
だから、登校日の週が何週あるか分からないが30週ほどはあるとして、だいたい一人3回くらいは載せて貰う機会があったはずだが、私には全くと言っていいほど縁がなかった。
当時の学年文集は手元にないので確かめるようなことは出来ないが、あまり支離滅裂な文章を書き連ねていたわけではないと思う。
落ち着きがなく素行不良というのも確かにあったかも知れないが、手を煩わせたという一事をもって私怨で外されていたというのも考えにくい。
となると、感想文そのものを提出していなかったという可能性もあるにはあるが、さすがに毎週書かされているものを都度都度無視しきったというのも考えにくい。
今もって理由は不明である。
だが、とにかく私の感想文というのはその学級通信においてはただの一度きり。
二年生の最後の最後の週に完全なるお情けで載ったというのが記憶に残っている。
というのも、担任の先生が「初めてすたたくんの文が学級通信にのりました。拍手」のようなことを恩着せがましく言っていたのが記憶の片鱗に残っているのだ。
まず間違いなく自分にとって都合の悪い記憶というが消えているのだとは思うが、こういう風に歳を取っていくのはよくないなぁと的を得ない反省をしている今日この頃でもある。
一歩家を出れば蜘蛛御殿。
あちらこちらに蜘蛛が巣を張り散らかしていて、虫の死骸や葉っぱなど実に多様なものがひっかかっているのを見かける。
そうはいってもクモという虫は随分と人権を得るようになったなぁなんて思う。
イヤ、なにか特別扱いをされているとは私も思わないが巷には蜘蛛好きを自称する人が随分と増えたように思う。
攻殻機動隊のタチコマじゃないがクモらしい動きなどはどこか愛らしさのようなものをたしかに感じなくもない。
私もクモは割と好きな方だ。どういうクモが好きかといえば最近、ネット上でわんさかプッシュされているハエトリグモではなく、ルブロンオオツチグモのようながっしりとした肉感の強いクモが好きだ。
ただああいうガッシリした感じのクモは熱帯に近いところで生きているものが多く私の住まう東北地方では温度管理や湿度管理などきちんと育成環境を整えないと飼育は難しいようだ。
クモの話といえばやはりクモの糸だろうか。
ハエトリグモは獲物に飛び掛かるとき自らに命綱を一本付けておく。(繊維状のものなので実際に一本と呼ぶべきかは諸説あるが)
さながらバンジージャンプのように身を空中に放り出す前に大瓶状腺糸というクモが出す糸の種類でもとりわけ頑丈なものをつけて飛び立つらしい。
しかし、その綱はバンジーのゴム紐の様に伸びきったら元の所へ伸縮してくるわけではない。糸の構造が一部潰れて崩壊エネルギーが熱として放出され、見事ブレーキのような働きを見せるという。
狩りを経るごとに腺からどのくらいの長さの糸を出せばブレーキがどのくらいかかって獲物をキレイにキャッチできるということを学んでいくのだと空想するとなんだか心くすぐるものがある。
しかし、実際に日本で目にする機会が多いのは毒々しい色をしたジョロウグモやコガネグモばかりなのでしゃにむに大きくなっていく彼らをみて餌になってしまった多くの犠牲に思いを馳せて何とはなしに無常観を感じてしまうのである。
あちらこちらに蜘蛛が巣を張り散らかしていて、虫の死骸や葉っぱなど実に多様なものがひっかかっているのを見かける。
そうはいってもクモという虫は随分と人権を得るようになったなぁなんて思う。
イヤ、なにか特別扱いをされているとは私も思わないが巷には蜘蛛好きを自称する人が随分と増えたように思う。
攻殻機動隊のタチコマじゃないがクモらしい動きなどはどこか愛らしさのようなものをたしかに感じなくもない。
私もクモは割と好きな方だ。どういうクモが好きかといえば最近、ネット上でわんさかプッシュされているハエトリグモではなく、ルブロンオオツチグモのようながっしりとした肉感の強いクモが好きだ。
ただああいうガッシリした感じのクモは熱帯に近いところで生きているものが多く私の住まう東北地方では温度管理や湿度管理などきちんと育成環境を整えないと飼育は難しいようだ。
クモの話といえばやはりクモの糸だろうか。
ハエトリグモは獲物に飛び掛かるとき自らに命綱を一本付けておく。(繊維状のものなので実際に一本と呼ぶべきかは諸説あるが)
さながらバンジージャンプのように身を空中に放り出す前に大瓶状腺糸というクモが出す糸の種類でもとりわけ頑丈なものをつけて飛び立つらしい。
しかし、その綱はバンジーのゴム紐の様に伸びきったら元の所へ伸縮してくるわけではない。糸の構造が一部潰れて崩壊エネルギーが熱として放出され、見事ブレーキのような働きを見せるという。
狩りを経るごとに腺からどのくらいの長さの糸を出せばブレーキがどのくらいかかって獲物をキレイにキャッチできるということを学んでいくのだと空想するとなんだか心くすぐるものがある。
しかし、実際に日本で目にする機会が多いのは毒々しい色をしたジョロウグモやコガネグモばかりなのでしゃにむに大きくなっていく彼らをみて餌になってしまった多くの犠牲に思いを馳せて何とはなしに無常観を感じてしまうのである。
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