恋歌ふたたび

2018年8月10日 日常
今一生懸命読んでいる本の名前である。
同名の歌もあるらしい。
著者は阿久悠。歌の作詞も阿久悠である。
実際、作詞家としての方が有名で、永六輔や中村八大らとともに昭和歌謡界の影の立役者というべき人物でもある。

この小説の初版が95年に発行であるのでおよそ30年以上前の本なのだが、シニカルなユーモアに富んだ表現が文章の端々にちりばめてあって自分にはひどく面白い。
特に気をてらった文は一行もない。クセのあるリズムを取っているとか独特の言い回しを多用するとかそういうわけでもない。フラットな文章の中に時代を生きた某氏の経験と熱が作品の中に生きているという点に引き込まれてしまったのだと思う。

まだ読み終わっていはいないのだが、なにか好みの文章に出会えたというのが昨今味わっていない無性の喜びを思い出させてくれた。

氏のような文章が書けるようになりたいと切におもう。
余り考えなしに似たようなものとして見ていた二つのものがある。
考えてみれば当たり前のことだが耐火構造物と断熱構造物は違うものだ。
耐火構造物とは熱に強い=高熱にさらされても構造組成が深部まで変化しないことがもとめられる。
断熱構造物は熱を通さない=それ自体は空気層を多く含むということもあるので可燃性であってもかまわない。たとえばダウンに使われる羽毛などがそれだ。

というような違いがあるのである。

石綿のような難燃性で断熱材としても働く物質もあるが人体への影響が大きいらしく今では使用してはいけないようになった。なかなかうまくはいかないものである。

最近、調べた知識の中でお気に入りなのは流動床式焼却炉ないしは流動床式ガス化溶融炉というものである。

熱した砂を空気で巻き上げてゴミにぶつけ、破砕しつつ焼却もするという見た目にもカッコいい技術で導入実績も意外と多かった。

さらには電気式溶融炉にはいかした名前を持つ者が多く、アーク式溶融炉とか電気抵抗式溶融炉とかプラズマ溶融炉とか文字を目にしただけでも何となく心くすぐられる。


未だかつてそのような派閥があったか知らないが私はモノラル過激派というわけではい。ただ時折そのような気持ちになることがある。厳密に言えばステレオという形式がなくなって欲しいということではなくミキシングがヘタクソな音源をモノラルで聞きたいという意味である。

音楽ファイルのことはあまり詳しくないのだが、大雑把な理解としてステレオ形式のファイルは音源が別々に録音されていて個別のトラックを作って一つのファイルにまとめているようだ。
そしてこの音源データは電気信号として処理されて、左側用・右側用としてヘッドフォンなりスピーカーなりに受け渡されている。
モノラルは録音データからして一つであるという。だから再生機器にも同じデータを左右に受け渡している。
厳密にはまたいろいろとややこしい分類ができるようだが素人の私が分かり易く話をまとめようとするとこの辺りが限界。

さて、で、ステレオ・モノラルの分類は元データの分類と視聴環境の分類とが存在していて、何を指してステレオ・モノラルとするかはまたややこしい話となる。

元データがモノラルで視聴環境がステレオという事も普通にありうる。
逆に元データがステレオで再生機器がモノラルというケースもある。
現在の技術レベルでこれらの関係が問題を起こすようなことはほとんどないのだが、音源データの形式によっては左右の音源をモノラル的に扱うにはソフト・ハード両面にとっていささか無視できない問題が起こるらしい。

だからステレオ音源は極力ステレオで再生されることが期待されているし、最大公約数的にモノラル音もステレオで聞けというのがオーディオ界の潮流でもある。

ただ、これは音楽トラックを製作する人がきちんとした聞けるレベルの音源を作るという期待も当然成り立っているはずである。ところが往々にしてこの期待は裏切られる。

音源を合成していくことをミキシングという。このミキシングという作業で音のバランス・音色・定位(どこから聞こえてくるように感じるか)を決めていくのだがこれを行った環境が一般的なものとかけ離れていたり、オペレーターが未熟であったりすると聞く人にとっては本当に聞くに堪えない音源が出来上がる。

ネットの海を漂っているとBASS音のバランスがおかしいとかで左右の音圧が違うモノラルで聞きたいような、正直に言えば聞くに堪えない音源と出会うことがある。

こういうときにステレオをつぶしてモノラルで聞けるようにデバイスドライバなりハードなりがすぐ切り替えられるようになっていればと思うことがあるのだが、どうも世界はそのようにできていないらしく、ついで今私が使っているヘッドホンの接続もUSB端子なのでオーディオ端子でモノラル化する細工もできない。

同様の悩みを抱える人などいないのだろうか、不思議に思うばかりの日々である。

般若心経の話。

2018年8月5日 日常
般若心経は、私にとって昔は憶えていたが今はまるきりうろ覚えという多くの知識の中の一つである。

私の祖父母のうち3人までもが他界したが、まだ一人は物忘れを増やしながらもそれなりに元気でいてくれるようだ。有難い話である。私が宮城県に引っ越してきたのは7歳になる頃のことであるが、その時までは東京にいた。両親も東京、神奈川で育っているし、係累はみな関東圏に住んでいるようだが、私たち家族はそこから350kmも離れた場所に引っ越すこととなったわけで、有り体に言えば縁も所縁もない地に越してきた母は相当なストレスであったと今でも事あるごとに愚痴をこぼしてる。
そんな離隔の地に移り住んできたので、そうそう気軽に実家へ帰るという機会もなく、今でも法事でもなければお線香も挙げないような不信心者となっている。
だが、父は次男だし、わたしはそのさらに次男ということもあって家督を次げ、なんていう話はまず出ないので墓守になることもなければ仏壇を預かることもなさそうである。
さてそうなれば、父たちはまた別のお墓を立てるのかもしれないが、その管理も兄に押し付けてしまえば気楽なもので、やはり供養法要を受け持つことはないだろうという打算で、せっかく覚えたもののすっかりお経を忘れてしまったというわけである。

ただ、何かと最近、民俗学的な見地から宗教の成り立ちや有用性について考察する機会があったため、そういえば、などと気が向いたので覚えなおそうとシックハックしている状態だ。

母からすると般若心経よりも光明真言の方が馴染み深いというのだが、あちらは23字とさらに短いお経であるらしい。父(私にとっては祖父)を早くに亡くした母は仏壇に手を合わせる習慣を持っていたようだが、なるほど日常的に唱えるならばどんどんと短く簡略化されたものの方が好まれるようになるのかもしれないと近頃ひどく納得した。

私自身は自分がどのような形で弔われようとあるいは弔われなかろうとまったく気にしない質なのだが、しかし、周りの人間が全く気にしないというわけでもなさそうなのでいざ、その時になってうろたえたりしないよう今からでも勉強しなくてはと中年に片足を突っ込んで思う今日この頃であった。

百日紅の話。

2018年8月4日 日常
両親の暮らす仙台の家には百日紅が植わっている。その他にも果樹や花をつける樹木はいくつか植わっているが、ここでは今の時期に花を咲かす百日紅について語ろうと思う。

百日紅はサルスベリと読むが、これは樹皮のつるつるとした感触から連想されてサルスベリと呼ばれるようになったらしい。しかし、実際にサルは何の苦も無くするすると登っていくそうである。まぁ、普通に人が登れるので、いわんやサルをやといったところか。
一方で、読んで字のごとく百日も花が続くのかという疑問もあるが、これは気候条件など運が向けば三カ月くらいは本当に咲き続けるらしくこちらの字は真実味のある特徴のようだ。
ざっとネットで調べたところ同じ花が3か月間も持ちこたえるわけではなく、咲いて散っての間にまた新しい芽が開いて散ってを繰り返すことから枝には常に花がついているように見え、これを指して百日紅と呼んだという記述を見つけた。
こうした博物的な観察眼を発揮する先人達には頭が下がる思いである。
私にしてみればウチに咲くものが他所とどれほどちがうのかもよく知らないが、ショッキングピンクに近い色をしているので天然色にはよくもこうした発色をするものだと感心するだけである。

これは前に庭の手入れを任せた植木屋の言葉だったか定かでないが「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」よろしく、百日紅もまた切らなければ花を咲かせるコンディションを保てないらしい。

百日紅はそれなりに背の高い木ではあるので、今から剪定に駆り出された場合に備えて、切る枝の見分け方を勉強しておかなければならないのではないかとなんとはなしに思われる日々である。
土用の丑の日というのはウナギを食べようというキャッチフレーズで有名だが、我が家ではウナギを食べる習慣がなかったので三十年近く生きてきてうな重ないしはかば焼きをたべたのは両手の指で足りるくらいしかない。今年は土用丑の日が二回あったらしくどちらももう過ぎている。7/20と8/1だったらしい。夏の土用というのは18日間あり大方は一番暑くなる時期をまたがるようにとられているらしい。余談だが「夏の土用には土いじりをするな」という言葉があるようだが、これは植物を掘り返した後に土に水をあげると根が蒸れてダメになってしまうことに由来する。

今の時代、ニホンウナギという種は絶滅に瀕しているらしいがだからと言って市場の流通量はいまだ少なくはなさそうだ。

個人的にはさかなクンがクニマスを見つけたように水生生物を完全に絶滅させるというのは難しいとは思うが、ウナギがこのまま絶滅したとしても自分は何らの呵責もない。

もちろん、積極的に絶滅して欲しいとは思わないが、だからと言って絶滅を回避する為に自身の余力を割こうという気持ちも湧いてこない。ただ普通に暮らしていてまずウナギを口にしないので積極的にウナギを常食している人たちよりは幾分か責任の度合いが軽いのではないかと思う。

さて責任逃れの言い訳も済んだところでちょっと真面目な話をしてみよう。

まず、これからウナギの需要は変わらないかという話だがこれは絶対数では確実に減る。何せ日本の人口そのものが減るので今後10年15年というスパンでは需要数は減少する、これは自明だ。
今の日本の人口分布で言うと団塊と団塊ジュニア世代が二極して多く大体同じくらいの人数で、その団塊の孫世代というのは団塊ジュニア世代の半分くらいしかいない。

今後二十年の間で日本の平均寿命に団塊の世代がさしかかれば総数の半分が淘汰される(もちろん今の数字から半分に減るわけではないし、他人の死を喜ぶつもりもないし、そのあとに新世代がまた多くなるかもしれない)、そうなればその頃には市場規模自体が縮小しているので大した問題はないように思う。

こうやって20年というタイムリミットを考えたとして、問題はそれ以前にウナギが絶滅してしまう場合である。個人的には問題とは思わないけれど、まぁここでは問題として考えてみようか。

経済学的に言って食品の需要は非弾力的。価格によって増減が少ない。
よってウナギが高価になったとしてもそこまでの需要減は見込めない。もしこの手法で減らそうとすれば所得に対しての比率を極端に高くしなくてはならず、泳ぐダイヤとして密猟が再び増える可能性もあるので難しい。

次に供給を絞る場合。これは場合によっては効果があるが、現状の水産庁の漁獲枠制限の方法が無主物専取。先に取ったもの勝ちというお粗末な原則に基づく総量規制という規制方法なので小規模生産者が泣きを見ることになる。
禁漁というのも同様で体力のない小規模生産者が割を食う可能性が高い。


他に方法はと言えばウナギを増やすというものである。
生息環境の改善は今更望めるかというとそれも難しい。
安心安全を考えれば人は護岸工事された河川流域に住みたいだろうし、既存の大河川に魚道を通すのも必要性との兼ね合いでどうしても後回しにされがちだからだ。
更には水田なども暗渠排水技術が全国的に浸透しており水路と水系の上流とは不連続な回路を形成されていることも多い。ウナギの為に環境をかえようという機運はだから大掛かりになりやすく難しいのである。
完全養殖技術が成立すれば事態は変わるが、こうした技術的なベンチャーは日本では生まれにくい。不経済だからだ。まずとってきた方が安いし国内の拓けた土地はかなり高い。安いところは山奥で造成から設備の維持、輸送や人員の確保の難しさなどから見向きもされない。

どこかで誰かがえいやっと動き出さなければ始まらないが、どうもそれは私ではなさそうだ。
和歌の歌集として有名なものを上げれば奈良時代の万葉集、平安時代の古今和歌集、鎌倉時代の新古今和歌集、同じく鎌倉時代の小倉百人一首あたりだろうか。
それぞれ4500首あまり、1111首、1970首あまり、100首と編纂された和歌の数があまりにも違うのは前のものが勅撰集であるのに対し小倉百人一首は私選集だからである。(ただし万葉集は成立の契機がいまいちはっきりわかっていないため今後の研究がまたれる)

そうはいっても、かるた遊びの金字塔でもある小倉百人一首は幼少の私に与えられた数少ない玩具の一つだった。
落ち着きはないが頭の巡りがそこそこの私は小学生にして決まり字の面倒くさい札を除いて半分程度はちゃんと覚えていたはずだ。とくに諸行無常を詠んだ坊さんたちの札は私の好むところで、逆に言うとお貴族様の恋愛歌などまだその機微も知らない少年にとってはまさしく他人事。何を言っているんだこの色ボケたちはという感じで冷めた感想しかなかった。
(筑波根の峰よりおつる皆野川 恋ぞ積もりて縁となりぬる なんてのは最たるものだ)

ただやはり使わない記憶というのはすごい勢いで消えていく。

この前、思い出そうとして思い出せなかったのは「秋の夕暮れ」の句である。

秋をテーマに詠まれた句はニ十首、そのうち「秋の夕暮れ」を含むものはニ首である。

私は良暹法師(りょうぜんほうし)の

”寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いずこも同じ 秋の夕暮れ”

はいつでも思い出せる。

問題はもう一つの句である。

出先で運転をしながらあれどうだったかな?という疑問が頭をよぎってからは全く
片鱗すら思い浮かばずもどかしさに身をやつしながら携帯を手にしたが、暑さの所為なのか最近めっきり電池が弱ってきていたので案の定昇天なされていた。仕方なくなんのかのと用事をこなし、帰宅して携帯を充電するまでえらく時間がかかってしまったが、調べてみれば次のような句である。

村雨の 露もまだひぬ 槙の葉の 霧立ち上る 秋の夕暮れ

こちらも寂蓮法師の句でにわか雨に濡れた木々の葉がまだ乾かないままに霧が出てきた秋の夕暮れを詠んだものらしい。

和歌には情景を描く際に神様とか天女とかなにかとファンタジックな部分で脚色していくことも多いのだが、これはなんというか風景描写のみの素朴な感じがまた良いではないかと思う。

たぶんニ、三日してみればまたどうだったかなと調べなおす予感がしているが、忘れれば忘れたなりに新たに感動できるならばそれもまた良いことなのかもしれない。
時季外れな話題だなと我ながら思うがワインの品評についての話ではないので。ご了承いただきたい。

いつからワインを飲み始めたか記憶に定かではないが、若いころはワインを美味しいと思ったことはなかった。
私はもともとアルコールに弱い体質であるらしくパッチテストではすぐに皮膚が赤くなるので検査員のお姉さんに「あんまり呑まない方がいいかも知れませんね」なんて言われたりもした。
それがどういうわけか知的好奇心からバーでバイトを始め色々な酒の味を覚え、カクテルリキュールなどを買いあさったりもした。今思えば完全に若気の至り、汗顔の至りである。
だがそれもまるきり無駄というわけでもなく、ウイスキー、ことにスコッチウイスキーについてはマッカランをはじめリベット、フィディック、モーレンジ、アイラも飲みボウモア、ラフロイグ、ラガヴーリン、カリラ、ブナハーブンetcと味を覚えるまで随分と飲ませて貰ったため今でも好んで飲んでいる。
ではワインの味もそのころ憶えたのかと言えば全然そんなことはなく、これはバーでの仕事を辞めてずいぶん経った後である。
そもそもの話が、ワインの味を語る前に経験値が足りなかった。
安いワインを三本程空けて前後不覚となったこともあるが、それでワインを語れるわけもなく未だ修行中の身である。
とはいえ、美味しいブドウのジュースをわざわざ酒にして美味しく飲めなくさせるのか、なんて酒を飲まぬ人にしてみれば誰でも思いつく不平を心に抱いたりもしたが、経年の影響だろうか味覚が中年に近づいていくにつれワインもこういう飲み物だという形で体が受け入れるようになってきた。
一昨晩に開けたワインはボジョレーの2016。ジョセフ・ドルーアン社のボジョレーである。
調べたところボジョレーヌーボーはフランス、ブルゴーニュのボジョレー地方において作られる新酒のことでブルゴーニュという地域のその年のワインの雰囲気を大まかに感じられる為に好んで飲まれるというらしい。
更に私が飲んだジョセフ・ドルーアン社は大手のメゾン(醸造元)らしく品質は折り紙つきというものだった。その年のというくらいだから二年前の2016を今更飲むのはどうなんだというの話もあるかもしれないがそこは素人ご容赦いただきたい。
さて、このワイン。いくら飲めるといってもウイスキー、日本酒、ブランデー、ビール、ワインに焼酎と並べて何を飲むと聞かれればおそらくこの順で飲んでいくだろうくらいにワインは敬遠しがちな酒なのだが、開けて一口目から随分と美味しく飲めた。ワインといって身構えていた私が拍子抜けするほどあっさりとした飲み口に渋さ甘さが程よく調和しているボトルで気付けば2時間ほどですっかり飲んでしまった。冷蔵庫からカマンベールも出してきてすっかり出来上がって鼻歌なんか歌ってしまってふと気づけば歳をとったなぁなんて思う今日この頃。

教養の話。

2018年7月30日 日常
教養とは何だろうか。
私の剣の師匠で、今はもうなくなられてしまったが国体の県対抗戦では大将を務めたこともあったという吉田茂という先生がいた。
その人が言うには教養とは思いやりだといった。
教養のある人物というのは相手の背景をパーソナリティを慮っていられる人物だといった。

剣道というのは武道でありこうした心を修める説話の時間というのが稽古の終わりの時にあるもので、吉田先生はつとに熱心に説話の時間を設けてくれた。

申し訳ない限りだがなにぶん小学三年生。歳にして七つの、それも落ち着きがない性分の少年だった私にはあくびをかみ殺して聞く時間で、そうした説話は私よりもむしろ習い事の付き合いで一緒に聴講していた母親の方がよく覚えていたりして、この話は一度聞いたきりのはずの母がそれからというもの何度も繰り返して私に聞かせたことで強く記憶にとどまっているひとつでもある。

吉田先生は当時もう70歳に届くか超えたかというくらいの老齢に出来た孫のような年齢の弟子だったからそれはもう公私にわたってよくしてもらったことを覚えている。実際に何度かお宅にお邪魔させていただいたこともり、そこには武門の家系であることがうかがえる甲冑や戦場槍などが部屋に飾ってあった。

この槍はここに返しがついている。
この返しというのは胴を突いた敵がこれ以上こちらへ来れないように返しがついているのだ、と教えてくれた。
刃物というのは実際、抜くまでは失血しにくく、また失血しさえしなければある程度元気に動けるものらしい。
刺さった刃物はその場で抜くなが現代の救急医療の基本だという。
あの有名なプロレスラー棚橋弘至なんかは痴情のもつれの挙句、刃物で刺されたまま抜かずに原付を運転して病院に行ったという逸話があるが、それでも出血が多くて一時は命が危なかったというくらいだから、どんなに鍛えていても人体にとって出血多量というのは致命打になりやすいのだろう。

その他には吉田邸において県代表を果たしたときのそれは見事な化粧胴を見せてもらったりもした。お土産に柿を頂いたりもしたと思う。まぁ普通のサラリーマンの父を持つ私にとっては得難い経験を色々とさせてもらったことは確かだ。

さて、話を戻すが教養といって他に思い浮かべるものというのはやはり古典の世界である。これが青春真っ只中であれば長髪で前髪ぱっつんの色んな事が気になる女の子と身の回りの不思議を解き明かすのもやぶさかではないのだが、あいにくと僕は男子校の出身だった。
それで、高校の頃はアレほどぴんと来ない世界だった古典がいざ歳を取ってみるとそれなり楽しめるのが人生の妙である。

私がなぜ古典がそんなに好きじゃなかったかと言えばこれはもう、教科書に載せている順番と時代がごちゃ混ぜの所為である。

日本語というのは連続しているようで不連続な変化の塊である。
元が万葉仮名であるから本来的に異体字などの同じ音価のひらがなでも描きかたが異なる文字も存在するし、現代仮名遣いになれてしまった我々では戦後の作家である三島由紀夫ですら原文で読み下すには難儀する。実際、仮名遣いはかなり違うのである。明治の作家である二葉亭四迷の浮雲などは学生時代に手に取り、もういいやと思いながらいやいや読んだ覚えがある。


日本で一番古いとされる古事記は紀元712年ころの成立であるがそれ以後でみていくと平安、鎌倉と下って北条の権勢から一掃して足利の室町時代これは政府の力が弱く南北朝から戦国時代も含まれるようだ、そして織田・豊臣権勢下の安土桃山時代、江戸前中期、江戸後期、明治、大正、昭和とくればそれぞれに時代掛かった言い回しや叙述を分類して理解していかなければならないのに、高校教育ではしばしば時間がないという理由からこうした時代別分類をさほど行わず古語辞典と参考書を片手に教科書と睨めっこすることになる。だが、これは本来おかしい。
あいうえおの索引順で並べる前に何時代のなんという言葉なのかという点から学ぶべきではなかろうか。
そうすればこの時代にはこういう作品群があってこういう言葉遣いをしていたという一貫性が出てくる。
現在のたいした一貫性もなく時代も散見されるような配列をするから古典というものがとっつきにくくなるのではないかと思う。

しかし、日本でそれなりに古典が読める形で残っているのは製紙、特に和紙にみられるような植物紙の生産は鎌倉時代にはすでに盛んだったからで、手紙のやり取りも盛んであったらしい。桑名あたりでは紙商人たちがカルテルを組んでいたような話を目にしたりもする。

日本の伝統的なカルテルは座という。

お酒を造るために必要な麹の販売元は麹座といった、比叡山延暦寺の北野社が麹座では特に有名で、室町時代に趨勢を誇ったこのカルテルは市井の酒屋と麹室の打ちこわしによる支配とその反発などで長い闘争の期間を経て、時代の終わり際、1545年頃に再び独占権を勝ち取っている。
信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは1571年で、京都へ攻め入るための地政学的重要拠点であったからなのは確かだが、独立独歩の既得権者として種類販売は経済部門ひいては大きな財源であった為にその存在が邪魔だったというではというのも面白い物の見方だと思う。



三十路間近になり、自分たちが本当にやりたいことは何かなんて考えるにつけやはりクリエイティブな行為をしたいというのが幼馴染との話でよく出る。
もちろん本当に好きなことだけに打ち込むためには先立つものが必要なのであくせく毎日働くしかないのだが、それ以上に表現したい何かというものを持っていなくてはいけないし、そのカタチをきちんと描き出していかなければならい。

音楽でもいいしイラストでもいい。小説でも書道的アートでも何でもいい。

とにかく何かひとつ完成までもっていくというのが大事になってくるのはどんな物事でも変わらない。

そんな啓発をどこそこで見かけ、ようし、じゃあ、作ろうかと気合を入れてもそこは素人。結局10万という容量のうち4万くらい書いてあーだこーだ頭を抱え結局、最後まで描き切らないということが何度か続いたので、今はだいたい5千から1万字くらいの短編を細々と書くことから始めている。

ただそれ以外にも少しばかり恥ずかしいが、訓練の一環として詩などを何作か作ってみたもののはてさて、どんなサービスに投稿すればいいのか皆目見当がつかない。小説投稿サイトに投稿してもレイアウトの感触がいまいちだったりするので何かうまい方法は無いものかと頭を捻っている次第である。
ところで詩を作ると今度はそれにあった絵が欲しくなってくる。
もちろん言葉だけで普遍的な訴求力を持たせられる才能があれば、絵など余計だということになるのかもしれないがそこも素人。
なんとなく寂しいような気がしてイラストが欲しくなる。
SAIみたいなイラスト用のソフトを買えば良いのかもしれないが、買って書かないなどもっと悪いことになりはしないかと恐々としている今日この頃である。

自由研究の話。

2018年7月28日 日常
夏と言えば思い出すのは自由研究というやつで、三十路間近で子供もいないからこういう話は自分の話せざるを得ない。

まぁ、大方はそれで良しとして、しかし、毎年課題を出されていたはずなのに自分の記憶に残っている提出課題はわずかに二つばかりである。

一つは縄文時代の生活についてまとめたポスター製作。仙台には地底の杜ミュージアムというのが太白区辺りにあって、ドーム状の博物館には出土したサッカーコート一個半くらいの広さの遺跡がまるまる保存されていたように思う。何分、子供のころに行ったきりで広さについては記憶違いもあるやも知れぬがご容赦いただきたい。
東北にある有名なもう一つの遺跡は三内丸山遺跡という青森県青森市の遺跡だ。この時はそちらにも行って火おこし体験というのをやらせてもらった。

何のことはない木の板にくぼみを作って棒を立てる。
そしてそのまま立てた棒をギコギコと一生懸命にねじって摩擦熱で火を熾すというものだ。
棒をねじる方法はいくつかあって両の掌で棒を挟んで揉むもっとも原始的な方法から、弓を作り弦の部分を棒に巻き付きけて糸鋸のようにギコギコと振る方式や羽根車式といって早い話がゼンマイ式の独楽をつくる方式やら色々な道具があった。
昨今になるとこの羽根車式は当時の技術にはそぐわないという学説が有力らしく、もしかしたら利用されていたかは怪しいらしいが、子供の自分にとってそのような議論はたいしたクスリになったわけでもなく、自由工作で作ったのはその羽根車式の火おこし器だったはずだ。いまでも実家を探せば残骸くらいはどこかの物置を探せば残っているかもしれない。こんな感じで一つ目の記憶は終わる。


二つ目の記憶はヨットの模型作りだ。
父方の実家は鎌倉にあって、というか鎌倉高校前のあの有名な踏切から長い坂を上った先にあって、七里ガ浜という浜辺まで家から歩いて数分という近さである。
そのような地域で育てばそれは優れたエリートパリピになれたに違いないのだが、どういう紆余曲折があってこんないじけた根暗おじさんになってしまったのかは後の日記に譲ろうと思う。

まぁそれで、その実家にはいくらか孫として遊びに行った時の遊び道具も常備されてあって、大抵は古式ゆかしい日本人形とかかあるいはLEGOといった近代的知的玩具のどちらかにぶんるいされる。しかし、中でもそれらに当てはまらず異彩を放っていたのがヨットの模型である。
それはもう海が近いから父の兄弟は青春と言えば海。(実は山も近いがここでは割愛)特にヨットに興じていたらしく叔父などはヨットレースでハワイまで言ったという命知らずだという。ヨットに詳しくない人からすればどれくらい危ないのかは伝わらないと思うが、まぁ普通に大会参加者の一人、二人は海難事故で死ぬがそれぐらいは仕方がないしニュースにもならない、そんな時代であったと聞く。叔父は結婚を機に嫁に迫られそうした身の危険のあるレースは遠慮するようになったと語ったが、還暦を回った今でもヨットのレースに参加しているのではないかと思う。
それで件のヨットの模型である。
これは完全手作りで、しかしいくつかのタイプのヨットがある。
まず目を引くのはボトルシップの数々である。確か3点くらいあったはずだ。
それ以外はディンギーヨットという漕艇みたいな薄い船体に帆がついたタイプからクルーザー級の豪華なヨットまで7~8点の模型が飾られていて、それらのうちいくつかはモーターで自走するという話を聞いたが実際に手に取って走らせた場面はいまだ見たことがない。しかし、針金細工などで手すりが作られていたり、運転席のガラスがはめ込まれていたりと芸の細かい中々に凝った逸品だったと記憶している。

それを真似て、ヨットの模型を作りたいと懇願したのがまだ幼少の時分であったとは思うが、子供の自分にはそれなりに面倒だった。そもそも模型なんてプラモデルを素組みするくらいしか知らないのだ。
図面を書いて板を切りだし、それらを張り合わせてあとはひたすらやすりで削っていく作業だ。何日かかったか定かではない。しかし、先に述べた精巧な模型から子供レベルまで随分と簡略化したらしく1週間くらいで作り上げたような気がする。
これはサーフェイスを縫って乾かしてまたやすりで削って着色して、ということも含めてだから、まぁまぁの短さだとは思うが、大人が本気を出したら何も知らない人でも週末の二日くらいで完成するだろうくらいのクオリティだったとおもう。

青と白のツートンカラーで実に私好みのシックなブルーで喫水面のラインどりをとったデザインをしたのだが、構造部材に加工のしやすいバルサを使ったのが災いしたのか軽すぎて水に浮かべた時のバランスが随分と悪かったので、思ったようにはいかなかった。完成から程なくして登校日となり、無事、品評を迎えて帰ってきたときにはマストが折れていた。飾ってあるときに誰かが折ったのかもしれないし自分が折ったのかもしれない。ただヒゴのように細い材だったから子供が雑に扱えば折れて当然であった。それに戻ってきたころにはやはり想像していたクオリティと違うことに、自分の美意識通りにいかないこの模型には興味も既に失せていて、わたしは日々の雑事に忙殺されていった。
この模型については壊れていたということもあって、たぶん引っ越しの折に捨ててしまったと思うが、いまでも時間があれば二号、三号となにか作ってみたいと思った。

麦茶の話。 

2018年7月28日 日常
お茶を呑むとホッとするのは人類普遍の感覚だろうと思うほどに、私などにとってはお茶は随分と有難い文化である。

別段、どこそこの家元でお茶を習ったわけではない。
祖母が確か表千家だったとは思うが、なにがしかの免状をとっていたというような話は何度か聞かされたが、それで簡単な、もっといえばひどく簡略化された形で手ほどきを一、二回受けたばかりで特段に何が身に付いたというわけではない。

鎌倉にある父方の実家には和室に囲炉裏が切ってあって、割かしちゃんとお茶ができるようになっていたので手習いを受けることができたのである。しかしその時の思い出と言えば、漆の高級そうな棗と祖母が手ずから掘った鎌倉彫の棗とを自慢のお茶器として見せて貰ったのと、いざお茶を入れる段になって備長炭しかないというので火おこしに随分と手間がかかったというのを覚えている。

最近になって調べたことだが、どうも備長炭というのはホームユースに向かない炭であるという。どういうことかというと備長炭は特徴として火をつけるまでにかなり熱さなければならず、その代わり一度火がつけば長時間消えない、いわゆる火持ちが良いと言う話らしい。
だから、あの時はもっと手ごろな炭があればなんて祖母も話していたとは思うが、いくつかの備長炭を家庭用の小口のガスコンロで10分、20分くらい延々と炭熾し(底に穴をあけた雪平鍋)で炙っている間に何か空いた時間でお話をしようということで茶器について解説してもらっていたんだと、ここまでつらつらと書いているうちに当時の記憶が甦ってきた。

それで、まぁ、ぱっと思いついてお茶をやりたいなんて言ったものだから、祖母の方にもお洒落和菓子のお茶菓子の用意があるわけでもなく、私は苦々とした抹茶を一人すすっていたように思う。

これが11かそこらの話だからもう18年くらい前の話にはなるが、それからというものどこかで抹茶を出してくれる席があればなんとなくお邪魔してみようかな、なんて思うようになった。
例えば他所の高校の文化祭で茶道部があるといえば、「女だらけの秘密のお茶会」(という程でもないがまぁほとんどが女生徒ばかり!)の会場に一人ずけずけと入って行ってお茶を飲んでいたこともある。
友人がいないのかと心配する声もあるかもしれないが、そんなことはない。
男にはモテたし(性的な意味では断じてない)、女生徒にも背は低いがまぁ顔と頭の回転だけはそこそこ見どころがあるという評価を貰っていたはずで、総じていうと人受けは結構よかった。
しかし、茶道部の催しに行こうと誘えば、そこは上手くいかなかった。
当時、周りはというと当然だが思春期の子供たちばかりで如何にもかしこまった席についての遠慮が先立って、男子生徒であればなおのこと気恥ずかしさも手伝って頑なに入場を拒否されたように思う。
私が平気だったのは先に行ったとおりの人受けの良さに自信があったことと、八年以上剣道をたしなんでいたことで、正座の姿勢や立ち居振る舞い、所作の美しさにも自信があったことが大きな理由である。

最近では、仙台市の勾当台公園という広場に色々な流派が天幕を張ってお茶を出すという催しがあったので電車を乗り継いでわざわざ行ってきたりもした。
(そこは茶道同様に煎茶道の流派もいくつか出店していた)

私が寄ったブースでは、亀甲竹(きっこうちくと読む)というグネグネと互い違いに膨らんだ竹を結界に設えてあり、何某作という絵付けの綺麗な茶器よりもそちらばかり見入ってしまった。どうもあれは自然にそういったものとして生えてくるらしく、機会があればいずれ私も一本欲しいところではある。

閑話休題。

さて本題と言っても別段大して内容がある話ではない。
というか二行ぐらいで終わってしまいそうなので、雑談を長々と書いてきたわけであるが、いい加減いつまでも麦茶の話をしないのもどうかというのでそちらの話をしようと思う。

自分は夏になると麦茶を買う。
幼少のころはほうじ茶ばかりを好んで飲んでいたとは思うが味覚は変わるもの。
大人になってからはコーヒー、紅茶ばかり飲むようになって日本茶を淹れる機会も飲む機会もとんと減ってきた。
ただやはり夏の暑い時期にコーヒーのような舌に重い(そして熱い)溶媒を好んでジャブジャブ飲むような能天気さはないので麦茶を淹れるようになった。

麦茶は良い。
何より安い。
伊藤園なんかが出している安いパックものだと、およその実勢価格が52袋入り(52L分)で250円くらいで買えてしまう。
おまけに水だしが手軽なので、100円ショップで買ってきた。ビニル製の2L容器に浄水とパックを放り込んだだけの麦茶を毎日愛飲している。お抹茶でさぞ高尚な舌をお持ちな雰囲気で書いて見せたが貧乏舌もいいところである。

ただ、そうはいってもどこででもその安いものがあるわけではないので、当然高価い麦茶も売っていたりする。

この前見つけた別の商品はというと18袋入り(もしかしたら20袋くらいは入っていたかもしれない)で370円くらい。高い。
ご丁寧にお買い得品というポップまでついて、やっぱり高い。

見つけた瞬間、「いや高すぎでしょ」なんて声に出してしまったくらいの衝撃だった。

ただ現在になってみるとこの高めの麦茶。もしかしたら本当にお買い得品だったのではないか、という疑問が頭をもたげてくる。
というのも、さすがに愛飲している安物の麦茶は早いところパックを取りださないと独特のエグみが出てくるから、もしかしたらそういった雑味の無い麦茶であればそんな風に容量が少なくても高くなってしまうのかもしれないとようやく思い至ったわけである。
それを見つけた日はもううだるような暑さで、そのせいもあって配慮に欠ける部分があったのは仕方無いとは思う。だって人間だもの。

でも、もし、あの麦茶がうまい麦茶だったら、衆人環境で的外れなことを言った私は陰でモノの分からない奴だとほくそ笑まれていたかもしれないし、そうでなくとも思いやりのない人であったかも知れぬと後悔が頭をもたげてくるのである。
 気付けばそろそろ30歳。全然、落ち着いた様子もないけれどきょうもきょうとて生きてます。幼馴染たちとなにか書きたいねという話をしていたんだけれど、相変わらず思いついては溶けていく言葉が取り留めもないので、まずは書く練習!と思ってまたDiarynoteに戻ってきたしだい。

面白いものが書けると良いなぁ。

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