修繕という名の破壊。
修繕という名の破壊。
世の中にはいろいろと都合がある。それは分かる。
大抵のプロジェクトは予算か日程か人員か、ヒドイ現場ではそれらすべてということもあるようだが、とにかく何かしらの問題で実現できない、できなかった内容というものがある。
これが世の中一般における業務であればそうした問題から生じる不利益を飲み込みながら仕事をして誰かにしわ寄せが行ったり行かなかったりしながらプロジェクトクローズとなる。
だが、不利益がプロジェクト参加者以外に生じた時にはどのような対策を取るべきだろうか。
あるいはプロジェクト全体で見た時に大方のところは利益が上回ってはいるけれど、ある部門だけ不利益が生じたという場合はどうすればよいのだろうか。

ある部門とは芸術作品のことである。

修理・修繕というのは本来、あるものを元の状態に戻すことを意味している。
もちろん現実的には可能な限り復帰させるというのが正しく、可能でない場合はその限りではない。
例えば、建築物を修繕するのに1000年の古木で同じ種類、指定の長さ、太さで材木を調達するというのはきわめて難しい。日本は戦後復興期に所得倍増論といった計画の末、無軌道に山林を切り開き大木たる古木を材木として輸出したため国内に古木のストックがそれほど多くない為である。今ある材も、何に使うかという計画のもと守られている木が多い。文化財級の建築物といっても国内には無数にある為、密林で注文すればすぐ届くようなことはないのだ。
特殊な芸術作品については材料に代替しがたい個性が存している場合にはなるべく条件をそろえてあげたいというのが人情だが、予算がつかないから無理、なんてことはありうる。

では、絵の場合は?

元の画が剥落してしまって空いた部分に何が描かれいたかは分からないので、できるだけ似たような資料を当たって妥当と思われる形で創作しました。
これは、難しいところだが、少なくとも本歌を当たろうという努力、姿勢といったものが感じられるので責めるには値しないと私は思う。
ただしヒメネスのキリスト画として有名なスペインの教会については本歌を当たろうという努力や姿勢が感じられないので経済効果があろうとも、元の著作者人格権を否定している点で経済効果だけを見て有難がるのは私としては異常だと思う。

長くなったが本題に移ろう。

例に挙げた画像はどうだろうか。

引用元は2017年4月23日TBSより放映された『世界遺産』より陽明門の特集であったと記憶している。

画像のサイズがまちまちなのは申し訳ないが、比較画像としてまとめたので見てほしい。
剥落が見える古びているのが修繕前、彩度の高い画像が修理後の画像である。

人形の表情がまるで違っているのが分かる。


線の太さモチーフの形、二枚目に至っては目頭から目じりまで幼稚園児の塗り絵のような目が描かれており、眉の形まで変わっている。これは私には完全に本歌を見ていないバイトが絵の具を塗っただけの工程のように見えるわけだ。
東照宮の修繕事業は国庫補助事業であり税金からも補助金が出ている。
さらに言えば、陽明門は狩野探幽が彫刻を手掛けた国宝である。もう一度言うがこれは国宝なのだ。
近寄って見えなければ杜撰でもいいというような気持ちで作られたものでは断じてない。
血税が注がれたさきにこのような杜撰な、修繕という名の芸術的価値の破壊が起きてしまうのはなぜなのだろうか。責任者は何を見てGOを出したのか疑問に思うばかりである。

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