昭和でも平成でも良いがメディア作品というのは当時から幾度も不況を経験している為、それらを乗り越えて権利団体なり企業なりが今でも存続しているとは限らないという認識があり、また発表当時からかなり時間が経った作品についてどこが権利を持っているのかなどはエンドユーザーはほとんど意識しないためアニメでもドラマでも映画でもネット上にはかなり多くの版権の怪しい作品が跋扈している。あるいは権者が収益化済みというような抜け道もあるようで、表面的にどう振舞うべきかはさっぱりと分からない。

一応、著作権切れというのは著作権者の死後50年か発表から70年経ったものがおおよその目安となるが、我々が目にするのはどちらもまだまだの作品ばかりである。

著作権法違反は親告罪なのでどのみち当事者の意識が大事ということになってくるのでそこまで気を張る必要もないかも知れない。

とはいえ今回話したいのはそんな話ではなく、昭和の作品、ないしは平成の作品でもいいが、とにかく、現代ではない時代観の感じられる作品群を今になって見返してみるとやはり、イデオロギー論的な論調が数多く見受けられ、それが当時の潮流であり、彼らの人生観であり原動力でもあったというのは何とはなしに伝わってくる気がする。

そういった作品には妥当すべき巨悪というものがあり、それに虐げられる人民がいて、社会のひずみとなって顕在化してくるという一連のテンプレートが存在しているわけだ。

今では盛んにTV放映されている松本清張シリーズというサスペンスドラマがあるが、あの作家もどこかイデオロギー論というか陰謀論めいた構図を多用する為、世の権力者の傲慢、欺瞞によって生み出された犠牲者が社会の歪みとして主人公の目というフィルターを通して描かれているわけだが、TV関係者にとって今の時代にそれはウケないという考えなのか、社会の歪みを表すマクガフィンたる犠牲者が本来筋書き上で死んでいるはずの人物が死んでいなかったり、抑圧されている理由とか形式みたいなものが現代版にアレンジされていたりするのが結構ある。

これは尺の都合というよりもむしろ、現代人の感覚を優先したモデル化をしているのだが、そうなると作家が本来描いていたはずの全体像が大きく変わり、話がどうにも小ぢんまりとした形でまとめられているようで、早い話がスケール観に欠けているように思われた。

最近、このスケール観の違いこそが世代別人口の差、活気の差なのだと気付いた時、なんだかうら寂しいような取り残されたような思いに心沈んでしまったのである。

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