土用の丑の日というのはウナギを食べようというキャッチフレーズで有名だが、我が家ではウナギを食べる習慣がなかったので三十年近く生きてきてうな重ないしはかば焼きをたべたのは両手の指で足りるくらいしかない。今年は土用丑の日が二回あったらしくどちらももう過ぎている。7/20と8/1だったらしい。夏の土用というのは18日間あり大方は一番暑くなる時期をまたがるようにとられているらしい。余談だが「夏の土用には土いじりをするな」という言葉があるようだが、これは植物を掘り返した後に土に水をあげると根が蒸れてダメになってしまうことに由来する。

今の時代、ニホンウナギという種は絶滅に瀕しているらしいがだからと言って市場の流通量はいまだ少なくはなさそうだ。

個人的にはさかなクンがクニマスを見つけたように水生生物を完全に絶滅させるというのは難しいとは思うが、ウナギがこのまま絶滅したとしても自分は何らの呵責もない。

もちろん、積極的に絶滅して欲しいとは思わないが、だからと言って絶滅を回避する為に自身の余力を割こうという気持ちも湧いてこない。ただ普通に暮らしていてまずウナギを口にしないので積極的にウナギを常食している人たちよりは幾分か責任の度合いが軽いのではないかと思う。

さて責任逃れの言い訳も済んだところでちょっと真面目な話をしてみよう。

まず、これからウナギの需要は変わらないかという話だがこれは絶対数では確実に減る。何せ日本の人口そのものが減るので今後10年15年というスパンでは需要数は減少する、これは自明だ。
今の日本の人口分布で言うと団塊と団塊ジュニア世代が二極して多く大体同じくらいの人数で、その団塊の孫世代というのは団塊ジュニア世代の半分くらいしかいない。

今後二十年の間で日本の平均寿命に団塊の世代がさしかかれば総数の半分が淘汰される(もちろん今の数字から半分に減るわけではないし、他人の死を喜ぶつもりもないし、そのあとに新世代がまた多くなるかもしれない)、そうなればその頃には市場規模自体が縮小しているので大した問題はないように思う。

こうやって20年というタイムリミットを考えたとして、問題はそれ以前にウナギが絶滅してしまう場合である。個人的には問題とは思わないけれど、まぁここでは問題として考えてみようか。

経済学的に言って食品の需要は非弾力的。価格によって増減が少ない。
よってウナギが高価になったとしてもそこまでの需要減は見込めない。もしこの手法で減らそうとすれば所得に対しての比率を極端に高くしなくてはならず、泳ぐダイヤとして密猟が再び増える可能性もあるので難しい。

次に供給を絞る場合。これは場合によっては効果があるが、現状の水産庁の漁獲枠制限の方法が無主物専取。先に取ったもの勝ちというお粗末な原則に基づく総量規制という規制方法なので小規模生産者が泣きを見ることになる。
禁漁というのも同様で体力のない小規模生産者が割を食う可能性が高い。


他に方法はと言えばウナギを増やすというものである。
生息環境の改善は今更望めるかというとそれも難しい。
安心安全を考えれば人は護岸工事された河川流域に住みたいだろうし、既存の大河川に魚道を通すのも必要性との兼ね合いでどうしても後回しにされがちだからだ。
更には水田なども暗渠排水技術が全国的に浸透しており水路と水系の上流とは不連続な回路を形成されていることも多い。ウナギの為に環境をかえようという機運はだから大掛かりになりやすく難しいのである。
完全養殖技術が成立すれば事態は変わるが、こうした技術的なベンチャーは日本では生まれにくい。不経済だからだ。まずとってきた方が安いし国内の拓けた土地はかなり高い。安いところは山奥で造成から設備の維持、輸送や人員の確保の難しさなどから見向きもされない。

どこかで誰かがえいやっと動き出さなければ始まらないが、どうもそれは私ではなさそうだ。

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