和歌の歌集として有名なものを上げれば奈良時代の万葉集、平安時代の古今和歌集、鎌倉時代の新古今和歌集、同じく鎌倉時代の小倉百人一首あたりだろうか。
それぞれ4500首あまり、1111首、1970首あまり、100首と編纂された和歌の数があまりにも違うのは前のものが勅撰集であるのに対し小倉百人一首は私選集だからである。(ただし万葉集は成立の契機がいまいちはっきりわかっていないため今後の研究がまたれる)

そうはいっても、かるた遊びの金字塔でもある小倉百人一首は幼少の私に与えられた数少ない玩具の一つだった。
落ち着きはないが頭の巡りがそこそこの私は小学生にして決まり字の面倒くさい札を除いて半分程度はちゃんと覚えていたはずだ。とくに諸行無常を詠んだ坊さんたちの札は私の好むところで、逆に言うとお貴族様の恋愛歌などまだその機微も知らない少年にとってはまさしく他人事。何を言っているんだこの色ボケたちはという感じで冷めた感想しかなかった。
(筑波根の峰よりおつる皆野川 恋ぞ積もりて縁となりぬる なんてのは最たるものだ)

ただやはり使わない記憶というのはすごい勢いで消えていく。

この前、思い出そうとして思い出せなかったのは「秋の夕暮れ」の句である。

秋をテーマに詠まれた句はニ十首、そのうち「秋の夕暮れ」を含むものはニ首である。

私は良暹法師(りょうぜんほうし)の

”寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いずこも同じ 秋の夕暮れ”

はいつでも思い出せる。

問題はもう一つの句である。

出先で運転をしながらあれどうだったかな?という疑問が頭をよぎってからは全く
片鱗すら思い浮かばずもどかしさに身をやつしながら携帯を手にしたが、暑さの所為なのか最近めっきり電池が弱ってきていたので案の定昇天なされていた。仕方なくなんのかのと用事をこなし、帰宅して携帯を充電するまでえらく時間がかかってしまったが、調べてみれば次のような句である。

村雨の 露もまだひぬ 槙の葉の 霧立ち上る 秋の夕暮れ

こちらも寂蓮法師の句でにわか雨に濡れた木々の葉がまだ乾かないままに霧が出てきた秋の夕暮れを詠んだものらしい。

和歌には情景を描く際に神様とか天女とかなにかとファンタジックな部分で脚色していくことも多いのだが、これはなんというか風景描写のみの素朴な感じがまた良いではないかと思う。

たぶんニ、三日してみればまたどうだったかなと調べなおす予感がしているが、忘れれば忘れたなりに新たに感動できるならばそれもまた良いことなのかもしれない。

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