教養とは何だろうか。
私の剣の師匠で、今はもうなくなられてしまったが国体の県対抗戦では大将を務めたこともあったという吉田茂という先生がいた。
その人が言うには教養とは思いやりだといった。
教養のある人物というのは相手の背景をパーソナリティを慮っていられる人物だといった。
剣道というのは武道でありこうした心を修める説話の時間というのが稽古の終わりの時にあるもので、吉田先生はつとに熱心に説話の時間を設けてくれた。
申し訳ない限りだがなにぶん小学三年生。歳にして七つの、それも落ち着きがない性分の少年だった私にはあくびをかみ殺して聞く時間で、そうした説話は私よりもむしろ習い事の付き合いで一緒に聴講していた母親の方がよく覚えていたりして、この話は一度聞いたきりのはずの母がそれからというもの何度も繰り返して私に聞かせたことで強く記憶にとどまっているひとつでもある。
吉田先生は当時もう70歳に届くか超えたかというくらいの老齢に出来た孫のような年齢の弟子だったからそれはもう公私にわたってよくしてもらったことを覚えている。実際に何度かお宅にお邪魔させていただいたこともり、そこには武門の家系であることがうかがえる甲冑や戦場槍などが部屋に飾ってあった。
この槍はここに返しがついている。
この返しというのは胴を突いた敵がこれ以上こちらへ来れないように返しがついているのだ、と教えてくれた。
刃物というのは実際、抜くまでは失血しにくく、また失血しさえしなければある程度元気に動けるものらしい。
刺さった刃物はその場で抜くなが現代の救急医療の基本だという。
あの有名なプロレスラー棚橋弘至なんかは痴情のもつれの挙句、刃物で刺されたまま抜かずに原付を運転して病院に行ったという逸話があるが、それでも出血が多くて一時は命が危なかったというくらいだから、どんなに鍛えていても人体にとって出血多量というのは致命打になりやすいのだろう。
その他には吉田邸において県代表を果たしたときのそれは見事な化粧胴を見せてもらったりもした。お土産に柿を頂いたりもしたと思う。まぁ普通のサラリーマンの父を持つ私にとっては得難い経験を色々とさせてもらったことは確かだ。
さて、話を戻すが教養といって他に思い浮かべるものというのはやはり古典の世界である。これが青春真っ只中であれば長髪で前髪ぱっつんの色んな事が気になる女の子と身の回りの不思議を解き明かすのもやぶさかではないのだが、あいにくと僕は男子校の出身だった。
それで、高校の頃はアレほどぴんと来ない世界だった古典がいざ歳を取ってみるとそれなり楽しめるのが人生の妙である。
私がなぜ古典がそんなに好きじゃなかったかと言えばこれはもう、教科書に載せている順番と時代がごちゃ混ぜの所為である。
日本語というのは連続しているようで不連続な変化の塊である。
元が万葉仮名であるから本来的に異体字などの同じ音価のひらがなでも描きかたが異なる文字も存在するし、現代仮名遣いになれてしまった我々では戦後の作家である三島由紀夫ですら原文で読み下すには難儀する。実際、仮名遣いはかなり違うのである。明治の作家である二葉亭四迷の浮雲などは学生時代に手に取り、もういいやと思いながらいやいや読んだ覚えがある。
日本で一番古いとされる古事記は紀元712年ころの成立であるがそれ以後でみていくと平安、鎌倉と下って北条の権勢から一掃して足利の室町時代これは政府の力が弱く南北朝から戦国時代も含まれるようだ、そして織田・豊臣権勢下の安土桃山時代、江戸前中期、江戸後期、明治、大正、昭和とくればそれぞれに時代掛かった言い回しや叙述を分類して理解していかなければならないのに、高校教育ではしばしば時間がないという理由からこうした時代別分類をさほど行わず古語辞典と参考書を片手に教科書と睨めっこすることになる。だが、これは本来おかしい。
あいうえおの索引順で並べる前に何時代のなんという言葉なのかという点から学ぶべきではなかろうか。
そうすればこの時代にはこういう作品群があってこういう言葉遣いをしていたという一貫性が出てくる。
現在のたいした一貫性もなく時代も散見されるような配列をするから古典というものがとっつきにくくなるのではないかと思う。
しかし、日本でそれなりに古典が読める形で残っているのは製紙、特に和紙にみられるような植物紙の生産は鎌倉時代にはすでに盛んだったからで、手紙のやり取りも盛んであったらしい。桑名あたりでは紙商人たちがカルテルを組んでいたような話を目にしたりもする。
日本の伝統的なカルテルは座という。
お酒を造るために必要な麹の販売元は麹座といった、比叡山延暦寺の北野社が麹座では特に有名で、室町時代に趨勢を誇ったこのカルテルは市井の酒屋と麹室の打ちこわしによる支配とその反発などで長い闘争の期間を経て、時代の終わり際、1545年頃に再び独占権を勝ち取っている。
信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは1571年で、京都へ攻め入るための地政学的重要拠点であったからなのは確かだが、独立独歩の既得権者として種類販売は経済部門ひいては大きな財源であった為にその存在が邪魔だったというではというのも面白い物の見方だと思う。
私の剣の師匠で、今はもうなくなられてしまったが国体の県対抗戦では大将を務めたこともあったという吉田茂という先生がいた。
その人が言うには教養とは思いやりだといった。
教養のある人物というのは相手の背景をパーソナリティを慮っていられる人物だといった。
剣道というのは武道でありこうした心を修める説話の時間というのが稽古の終わりの時にあるもので、吉田先生はつとに熱心に説話の時間を設けてくれた。
申し訳ない限りだがなにぶん小学三年生。歳にして七つの、それも落ち着きがない性分の少年だった私にはあくびをかみ殺して聞く時間で、そうした説話は私よりもむしろ習い事の付き合いで一緒に聴講していた母親の方がよく覚えていたりして、この話は一度聞いたきりのはずの母がそれからというもの何度も繰り返して私に聞かせたことで強く記憶にとどまっているひとつでもある。
吉田先生は当時もう70歳に届くか超えたかというくらいの老齢に出来た孫のような年齢の弟子だったからそれはもう公私にわたってよくしてもらったことを覚えている。実際に何度かお宅にお邪魔させていただいたこともり、そこには武門の家系であることがうかがえる甲冑や戦場槍などが部屋に飾ってあった。
この槍はここに返しがついている。
この返しというのは胴を突いた敵がこれ以上こちらへ来れないように返しがついているのだ、と教えてくれた。
刃物というのは実際、抜くまでは失血しにくく、また失血しさえしなければある程度元気に動けるものらしい。
刺さった刃物はその場で抜くなが現代の救急医療の基本だという。
あの有名なプロレスラー棚橋弘至なんかは痴情のもつれの挙句、刃物で刺されたまま抜かずに原付を運転して病院に行ったという逸話があるが、それでも出血が多くて一時は命が危なかったというくらいだから、どんなに鍛えていても人体にとって出血多量というのは致命打になりやすいのだろう。
その他には吉田邸において県代表を果たしたときのそれは見事な化粧胴を見せてもらったりもした。お土産に柿を頂いたりもしたと思う。まぁ普通のサラリーマンの父を持つ私にとっては得難い経験を色々とさせてもらったことは確かだ。
さて、話を戻すが教養といって他に思い浮かべるものというのはやはり古典の世界である。これが青春真っ只中であれば長髪で前髪ぱっつんの色んな事が気になる女の子と身の回りの不思議を解き明かすのもやぶさかではないのだが、あいにくと僕は男子校の出身だった。
それで、高校の頃はアレほどぴんと来ない世界だった古典がいざ歳を取ってみるとそれなり楽しめるのが人生の妙である。
私がなぜ古典がそんなに好きじゃなかったかと言えばこれはもう、教科書に載せている順番と時代がごちゃ混ぜの所為である。
日本語というのは連続しているようで不連続な変化の塊である。
元が万葉仮名であるから本来的に異体字などの同じ音価のひらがなでも描きかたが異なる文字も存在するし、現代仮名遣いになれてしまった我々では戦後の作家である三島由紀夫ですら原文で読み下すには難儀する。実際、仮名遣いはかなり違うのである。明治の作家である二葉亭四迷の浮雲などは学生時代に手に取り、もういいやと思いながらいやいや読んだ覚えがある。
日本で一番古いとされる古事記は紀元712年ころの成立であるがそれ以後でみていくと平安、鎌倉と下って北条の権勢から一掃して足利の室町時代これは政府の力が弱く南北朝から戦国時代も含まれるようだ、そして織田・豊臣権勢下の安土桃山時代、江戸前中期、江戸後期、明治、大正、昭和とくればそれぞれに時代掛かった言い回しや叙述を分類して理解していかなければならないのに、高校教育ではしばしば時間がないという理由からこうした時代別分類をさほど行わず古語辞典と参考書を片手に教科書と睨めっこすることになる。だが、これは本来おかしい。
あいうえおの索引順で並べる前に何時代のなんという言葉なのかという点から学ぶべきではなかろうか。
そうすればこの時代にはこういう作品群があってこういう言葉遣いをしていたという一貫性が出てくる。
現在のたいした一貫性もなく時代も散見されるような配列をするから古典というものがとっつきにくくなるのではないかと思う。
しかし、日本でそれなりに古典が読める形で残っているのは製紙、特に和紙にみられるような植物紙の生産は鎌倉時代にはすでに盛んだったからで、手紙のやり取りも盛んであったらしい。桑名あたりでは紙商人たちがカルテルを組んでいたような話を目にしたりもする。
日本の伝統的なカルテルは座という。
お酒を造るために必要な麹の販売元は麹座といった、比叡山延暦寺の北野社が麹座では特に有名で、室町時代に趨勢を誇ったこのカルテルは市井の酒屋と麹室の打ちこわしによる支配とその反発などで長い闘争の期間を経て、時代の終わり際、1545年頃に再び独占権を勝ち取っている。
信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは1571年で、京都へ攻め入るための地政学的重要拠点であったからなのは確かだが、独立独歩の既得権者として種類販売は経済部門ひいては大きな財源であった為にその存在が邪魔だったというではというのも面白い物の見方だと思う。
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