夏と言えば思い出すのは自由研究というやつで、三十路間近で子供もいないからこういう話は自分の話せざるを得ない。
まぁ、大方はそれで良しとして、しかし、毎年課題を出されていたはずなのに自分の記憶に残っている提出課題はわずかに二つばかりである。
一つは縄文時代の生活についてまとめたポスター製作。仙台には地底の杜ミュージアムというのが太白区辺りにあって、ドーム状の博物館には出土したサッカーコート一個半くらいの広さの遺跡がまるまる保存されていたように思う。何分、子供のころに行ったきりで広さについては記憶違いもあるやも知れぬがご容赦いただきたい。
東北にある有名なもう一つの遺跡は三内丸山遺跡という青森県青森市の遺跡だ。この時はそちらにも行って火おこし体験というのをやらせてもらった。
何のことはない木の板にくぼみを作って棒を立てる。
そしてそのまま立てた棒をギコギコと一生懸命にねじって摩擦熱で火を熾すというものだ。
棒をねじる方法はいくつかあって両の掌で棒を挟んで揉むもっとも原始的な方法から、弓を作り弦の部分を棒に巻き付きけて糸鋸のようにギコギコと振る方式や羽根車式といって早い話がゼンマイ式の独楽をつくる方式やら色々な道具があった。
昨今になるとこの羽根車式は当時の技術にはそぐわないという学説が有力らしく、もしかしたら利用されていたかは怪しいらしいが、子供の自分にとってそのような議論はたいしたクスリになったわけでもなく、自由工作で作ったのはその羽根車式の火おこし器だったはずだ。いまでも実家を探せば残骸くらいはどこかの物置を探せば残っているかもしれない。こんな感じで一つ目の記憶は終わる。
二つ目の記憶はヨットの模型作りだ。
父方の実家は鎌倉にあって、というか鎌倉高校前のあの有名な踏切から長い坂を上った先にあって、七里ガ浜という浜辺まで家から歩いて数分という近さである。
そのような地域で育てばそれは優れたエリートパリピになれたに違いないのだが、どういう紆余曲折があってこんないじけた根暗おじさんになってしまったのかは後の日記に譲ろうと思う。
まぁそれで、その実家にはいくらか孫として遊びに行った時の遊び道具も常備されてあって、大抵は古式ゆかしい日本人形とかかあるいはLEGOといった近代的知的玩具のどちらかにぶんるいされる。しかし、中でもそれらに当てはまらず異彩を放っていたのがヨットの模型である。
それはもう海が近いから父の兄弟は青春と言えば海。(実は山も近いがここでは割愛)特にヨットに興じていたらしく叔父などはヨットレースでハワイまで言ったという命知らずだという。ヨットに詳しくない人からすればどれくらい危ないのかは伝わらないと思うが、まぁ普通に大会参加者の一人、二人は海難事故で死ぬがそれぐらいは仕方がないしニュースにもならない、そんな時代であったと聞く。叔父は結婚を機に嫁に迫られそうした身の危険のあるレースは遠慮するようになったと語ったが、還暦を回った今でもヨットのレースに参加しているのではないかと思う。
それで件のヨットの模型である。
これは完全手作りで、しかしいくつかのタイプのヨットがある。
まず目を引くのはボトルシップの数々である。確か3点くらいあったはずだ。
それ以外はディンギーヨットという漕艇みたいな薄い船体に帆がついたタイプからクルーザー級の豪華なヨットまで7~8点の模型が飾られていて、それらのうちいくつかはモーターで自走するという話を聞いたが実際に手に取って走らせた場面はいまだ見たことがない。しかし、針金細工などで手すりが作られていたり、運転席のガラスがはめ込まれていたりと芸の細かい中々に凝った逸品だったと記憶している。
それを真似て、ヨットの模型を作りたいと懇願したのがまだ幼少の時分であったとは思うが、子供の自分にはそれなりに面倒だった。そもそも模型なんてプラモデルを素組みするくらいしか知らないのだ。
図面を書いて板を切りだし、それらを張り合わせてあとはひたすらやすりで削っていく作業だ。何日かかったか定かではない。しかし、先に述べた精巧な模型から子供レベルまで随分と簡略化したらしく1週間くらいで作り上げたような気がする。
これはサーフェイスを縫って乾かしてまたやすりで削って着色して、ということも含めてだから、まぁまぁの短さだとは思うが、大人が本気を出したら何も知らない人でも週末の二日くらいで完成するだろうくらいのクオリティだったとおもう。
青と白のツートンカラーで実に私好みのシックなブルーで喫水面のラインどりをとったデザインをしたのだが、構造部材に加工のしやすいバルサを使ったのが災いしたのか軽すぎて水に浮かべた時のバランスが随分と悪かったので、思ったようにはいかなかった。完成から程なくして登校日となり、無事、品評を迎えて帰ってきたときにはマストが折れていた。飾ってあるときに誰かが折ったのかもしれないし自分が折ったのかもしれない。ただヒゴのように細い材だったから子供が雑に扱えば折れて当然であった。それに戻ってきたころにはやはり想像していたクオリティと違うことに、自分の美意識通りにいかないこの模型には興味も既に失せていて、わたしは日々の雑事に忙殺されていった。
この模型については壊れていたということもあって、たぶん引っ越しの折に捨ててしまったと思うが、いまでも時間があれば二号、三号となにか作ってみたいと思った。
まぁ、大方はそれで良しとして、しかし、毎年課題を出されていたはずなのに自分の記憶に残っている提出課題はわずかに二つばかりである。
一つは縄文時代の生活についてまとめたポスター製作。仙台には地底の杜ミュージアムというのが太白区辺りにあって、ドーム状の博物館には出土したサッカーコート一個半くらいの広さの遺跡がまるまる保存されていたように思う。何分、子供のころに行ったきりで広さについては記憶違いもあるやも知れぬがご容赦いただきたい。
東北にある有名なもう一つの遺跡は三内丸山遺跡という青森県青森市の遺跡だ。この時はそちらにも行って火おこし体験というのをやらせてもらった。
何のことはない木の板にくぼみを作って棒を立てる。
そしてそのまま立てた棒をギコギコと一生懸命にねじって摩擦熱で火を熾すというものだ。
棒をねじる方法はいくつかあって両の掌で棒を挟んで揉むもっとも原始的な方法から、弓を作り弦の部分を棒に巻き付きけて糸鋸のようにギコギコと振る方式や羽根車式といって早い話がゼンマイ式の独楽をつくる方式やら色々な道具があった。
昨今になるとこの羽根車式は当時の技術にはそぐわないという学説が有力らしく、もしかしたら利用されていたかは怪しいらしいが、子供の自分にとってそのような議論はたいしたクスリになったわけでもなく、自由工作で作ったのはその羽根車式の火おこし器だったはずだ。いまでも実家を探せば残骸くらいはどこかの物置を探せば残っているかもしれない。こんな感じで一つ目の記憶は終わる。
二つ目の記憶はヨットの模型作りだ。
父方の実家は鎌倉にあって、というか鎌倉高校前のあの有名な踏切から長い坂を上った先にあって、七里ガ浜という浜辺まで家から歩いて数分という近さである。
そのような地域で育てばそれは優れたエリートパリピになれたに違いないのだが、どういう紆余曲折があってこんないじけた根暗おじさんになってしまったのかは後の日記に譲ろうと思う。
まぁそれで、その実家にはいくらか孫として遊びに行った時の遊び道具も常備されてあって、大抵は古式ゆかしい日本人形とかかあるいはLEGOといった近代的知的玩具のどちらかにぶんるいされる。しかし、中でもそれらに当てはまらず異彩を放っていたのがヨットの模型である。
それはもう海が近いから父の兄弟は青春と言えば海。(実は山も近いがここでは割愛)特にヨットに興じていたらしく叔父などはヨットレースでハワイまで言ったという命知らずだという。ヨットに詳しくない人からすればどれくらい危ないのかは伝わらないと思うが、まぁ普通に大会参加者の一人、二人は海難事故で死ぬがそれぐらいは仕方がないしニュースにもならない、そんな時代であったと聞く。叔父は結婚を機に嫁に迫られそうした身の危険のあるレースは遠慮するようになったと語ったが、還暦を回った今でもヨットのレースに参加しているのではないかと思う。
それで件のヨットの模型である。
これは完全手作りで、しかしいくつかのタイプのヨットがある。
まず目を引くのはボトルシップの数々である。確か3点くらいあったはずだ。
それ以外はディンギーヨットという漕艇みたいな薄い船体に帆がついたタイプからクルーザー級の豪華なヨットまで7~8点の模型が飾られていて、それらのうちいくつかはモーターで自走するという話を聞いたが実際に手に取って走らせた場面はいまだ見たことがない。しかし、針金細工などで手すりが作られていたり、運転席のガラスがはめ込まれていたりと芸の細かい中々に凝った逸品だったと記憶している。
それを真似て、ヨットの模型を作りたいと懇願したのがまだ幼少の時分であったとは思うが、子供の自分にはそれなりに面倒だった。そもそも模型なんてプラモデルを素組みするくらいしか知らないのだ。
図面を書いて板を切りだし、それらを張り合わせてあとはひたすらやすりで削っていく作業だ。何日かかったか定かではない。しかし、先に述べた精巧な模型から子供レベルまで随分と簡略化したらしく1週間くらいで作り上げたような気がする。
これはサーフェイスを縫って乾かしてまたやすりで削って着色して、ということも含めてだから、まぁまぁの短さだとは思うが、大人が本気を出したら何も知らない人でも週末の二日くらいで完成するだろうくらいのクオリティだったとおもう。
青と白のツートンカラーで実に私好みのシックなブルーで喫水面のラインどりをとったデザインをしたのだが、構造部材に加工のしやすいバルサを使ったのが災いしたのか軽すぎて水に浮かべた時のバランスが随分と悪かったので、思ったようにはいかなかった。完成から程なくして登校日となり、無事、品評を迎えて帰ってきたときにはマストが折れていた。飾ってあるときに誰かが折ったのかもしれないし自分が折ったのかもしれない。ただヒゴのように細い材だったから子供が雑に扱えば折れて当然であった。それに戻ってきたころにはやはり想像していたクオリティと違うことに、自分の美意識通りにいかないこの模型には興味も既に失せていて、わたしは日々の雑事に忙殺されていった。
この模型については壊れていたということもあって、たぶん引っ越しの折に捨ててしまったと思うが、いまでも時間があれば二号、三号となにか作ってみたいと思った。
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